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日蓮大聖人・池田大作

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新たな世界的大乗教  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 ベルクソンは仏教についてエラン(躍動力)が不足していると語りました。つまり、現実社会のただ中へと打って出るエネルギーに欠けているというのです。アルフレッド・ホワイトヘッドも仏教には不満をもらしています。多くの場合、実りのない受動的な瞑想に終始してしまうからです。
 欧米知識人の仏教に対するこのような否定的見解は珍しいものではありません。一方、一九七〇年代におけるニュー・エイジ・サイエンスの登場とともに、仏教等の東洋思想に肯定的なまなざしが注がれ始めました。というのも、「欲望」と「意思」のかぎりない発動と拡大のもと、まっしぐらに突き進んできた西欧近代文明(ポール・ヴァレリー)が、核の脅威や環境破壊といったかたちで、さまざまな破綻を露呈し始めたからです。そこで人々は、西洋流の個人主義の限界に気づくにいたりました。
 博士の指摘された仏教の長所と短所は、これまで仏教に対してなされてきた評価をあますところなく概括し、なお博士ならではの卓見をも盛り込んだ内容であると感服しております。そのうえでさらに申し上げれば、長所と短所はしばしば表裏一体でもあります。
 博士は長所の筆頭に、仏教の「無我」説をあげられました。たしかに西洋の極端な個人主義を浄化しうる対極ともいうべき概念です。しかし、この「無我」を“我は無い”というように実体論的に捉えて徹底すると、欲望を生みだす生命そのもののエネルギーを断じ尽くさなければならなくなり、ひいては消極的ニヒリズムにおちいる結果にもなってしまいます。部派仏教(小乗教)は、その好例でした。ベルクソンやホワイトヘッドの指摘も、そこを突いたものであると私は思っています。
 端的に申し上げれば、仏教は今日の西欧社会からの熱い視線のうちに安住するのではなく、みずからさらに蘇生と革新への道を歩まねばならないのです。その意味で、私どもは、世界へと開かれた新たなる大乗仏教運動を起こさなければならないと考えています。
 仏教三千年の歴史には、いくたびか革新運動が勃興しました。それはつねに、一部の聖職者の手から仏教本来の輝きを取り戻そうとする戦いでした。“現実の社会の中へ”“民衆の中へ”――このベクトルは、一貫して変わらず、つねに革新運動の旗印であったといってよいでしょう。
 地球的諸問題に遭遇している今日の世界にあって、仏教そのものも既成の伝統の枠を脱皮すべき時期に直面していると私は思うのです。すでに博士は、地球的規模の運動を展開しているSGIはこれまでの仏教のなかでも「きわめて刺激的な例外」「模範的な例証」と評価してくださっておりますが、さらにご意見やアドバイスがあれば、お願いしたいと思います。
2  ガルトゥング 私は、かつて旧共産主義政権の時代にモンゴルのある仏教徒が語っていた、ある言葉にたいそう感銘を受けました。「小乗教(ヒナヤーナ)とか大乗教(マハヤーナ)とかにはあまりこだわらないようにしましょう。私は仏教徒として“ブッダヤーナ”(仏乗教)を信じているのです」。彼のこの言い方は単純で、あまりに割り切った言葉のようにも聞こえますが、たしかに一理あるのです。
 小乗教にも大乗教にも、それぞれ長所と短所があります。もし小乗教徒があまりに個人主義的で社会から遊離し、宿命論者的である――さらにはニヒリスティック(虚無主義的)ですらある――というのであれば、大乗教徒のほうも「大きな乗物(大乗)」でさえあれば何でも――ちょっとしたしゃれをご勘弁いただけるならば、世界の市場に乗物を供給している自動車製造業者でさえも――仏教の範疇に入れたくなるという誘惑に負けることが、時折あるといえるのです。
 しかし、大乗教の教説には、まさに仏教の真髄をなす一つの側面があります。それはあらゆる生命体――それも現在に限らず、過去と未来にわたる生きとし生けるもの――との全宇宙的な連帯です。西洋では「過去は過去、文字どおり過ぎ去ったもの」と考える傾向があります。これに対して、仏教では、過去・現在・未来の生命体が、すべて縁起によってつながっていると説きます。仏教の核心をなしている因果の法則は、アリストテレスの複雑な因果観に近いもので、動因のみを重視する今日の西洋の還元主義の概念とはかなり違います。ジョアンナ・メーシーは仏教に関する優れた著作の中で、仏教は決して一柱の神にも、一人の預言者にも、一冊の本にも限られるものでないことを指摘しています。
 このことは、具体的に言えば、現在生きているあらゆるものとの共時的な連帯であり、未来の生き物との通時的な連帯であり、さらに過去の生き物の苦闘との連帯です。もちろん、その途上にあるいくつもの落とし穴を避けるよう慎重に行動しなければなりませんが、発展や健全な環境のための奮闘も、国際連合をよりよき機関にするための努力も、すべてこの公式のなかに収めることができます。
 発展のためには「ドゥッカ」(苦)を減らすことに焦点がおかれなければなりません。今日ふうの専門用語でいうと、「万人の人間としての基本的な必要を満たす」ということです。ただし、万人といってもまず最も困窮している人々から、つまり減らさなければならない「ドゥッカ」をいちばん多く持っている人々から、始めなければならないのは当然です。これはたしかに、今日私たちが理解している「経済成長」とは同じではありません。本当に大事な次元は「ドゥッカ」と「スッカ」――苦と楽――の比率です。しばしば指摘されるように、国民総生産(GNP)は、この次元を測る物差しとしてはまことに不適当なものです。
 「人間としての基本的な必要」という概念は、たんに経済的手段だけで満たしうる必要の範囲を、はるかに超えています。それに含まれるものとしては、ある程度の物質的福利は当然として、そのほかに生きる理由、アイデンティティー、物心両面の移動と選択の自由等があります。なかでも最も基本的な必要が、個人としてまた集団として、つまり一人の人間としてまた家族、氏族、民族、種として、生きる必要、生き残る必要です。
 また、自然界にとって必要なものも考慮に入れなければなりません。仏教では、人間も「大きな生命連鎖」の一部をなすものと考えます。たしかに生き残ることは、人間にとってと同様、動植物にとっても――少なくとも種として――重要なことです。日光や水や栄養素の分け前にあずかることも含めて、たとえ最小限の福利であっても、これらの生命体にとって、それは欠くことのできないものです。もしかしたら人間以外の生物も、たとえばちょうど種子が芽を出す時のように、ささやかな自由を得て自己発現をするときに、ある種の幸福、つまり「スッカ」(幸福、楽)を感じることがあるのではないでしょうか。
 仏教は、発展と環境に関する問題群を一つの傘の中で見事にあつかっています。しかし、「ドゥッカ」(苦しみ)が減ったからといって必ずしも「スッカ」が増えるわけではない、という反論も出てくるかもしれません。たしかに心からの幸福とは、最小限の必要が満たされ、それよりもほんの少し多くを望んで、それが叶えられることを言う、というのも本当でしょう。
 しかし、この最小限の必要に追加されるものが、非物質的なものであればもっとよいでしょう。芸術家や研究者など実際に創造的な活動をしている人々は、仕事に没頭するあまり、物質的な事物を賞玩する時間さえありません。創造的な行為が彼らに生きがいを与えているのです。精神的成長は、創造性よりもさらに幅の広い範疇です。しかしなお、ガンジーの言う「各人の必要を満たすに十分なもの」と「各人の貪欲を満たすには不十分なもの」(『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)との間にはかなりの隔たりがあるにちがいありません。私たちは、物質面で最低限のぎりぎりの生活をする必要はありませんが、慎重さは必要です。
 いちばん大事なことは、どのようにして富を作り出すかということです。私たちは他の人間も自然環境も食い物にしてはなりません。「食い物にする」という意味は、最悪の場合には、その対象からあまりに多くのものを取ってしまい、その結果、彼らの繁殖や再生が不可能になって絶滅するということです。
 その意味で、私は、先にもふれた仏教で説く「五戒」(パンチャ・シラニ=①不殺生戒、②不偸盗戒、③不邪婬戒、④不妄語戒、⑤不飲酒戒)の第二、「不偸盗戒」はまことに適切な教えであると思います。これはたんに「盗んではならない」というだけではなく「与えられたのでもなく快く提供されたのでもないものを取ってはならない」ということでもあるのです。窃盗は、もちろんこの「不偸盗戒」の範疇に入ります。しかし、トップにいる一割の人間が、生産される価値の九割を着服してしまうような経済制度を作り上げるのも、同じくこの範疇に入ります。他の九割の人間はそれを許可した覚えなどまったくありません。その理由はさまざまあるにせよ、まず第一にそもそも彼らにはひとことの相談もなかったからです。そのように不釣り合いな分け前が、富裕な少数階層に「快く提供される」はずなど決してありません。
 同様に、奴隷所有者は、自分たちの欲しいものを――たとえば自由を――奴隷から奪っても、「物を盗んだ」と非難されることはありません。しかしそれは、「窃盗」という言葉では言い尽くせない大きな犯罪です。しかもあろうことか、それは社会構造の正常な働きの一部であると見なされてきたのです。
 興味深いことに、現代の西洋思想の三つの主要な構成要素――一つには自由主義者が強調する発展の自由、二つにはマルクス主義者が強調する公平、正義、搾取の排除、三つめにはもっと最近になって環境保護論者たちが強調し始めた自然環境の保護――は、いずれも仏教思想のなかにいとも簡単に収めることができます。これらの要素のうちどれか一つというのでなく、三つの要素すべての核心にふれていることが、仏教の卓越性を示しているのです。
 よりよき国際連合、ないしはもっと広い言い方をすれば「世界中央統治機構」は、あなたの言われる「世界へと開かれた」活性化された地球的な大乗仏教の運動のようなものともよく協調して進めなければなりません。そして大乗仏教運動や世界統治機構は、国際社会の優等生国にも、出来のかんばしくない国にも、ともに「開かれて」いなければなりません。こうした、出来のよくない国々を排除してはなりません。なぜなら、これらの国々こそ、どの国々にもまして帰属意識を、また他の諸国とともに共通の目標達成のために努力しようという意識を、必要としているからです。仏教徒は、悪人を白い眼で見て彼らを即犯罪人と決め込むようなことはせず、むしろ彼らの不行跡の原因を理解しようと努め、さらに、そうした行為を彼らにさせている悪い業(カルマ)を変えてあげようと努力します。
 仏教の歴史には「いくたびか革新運動が勃興した」と言われたあなたの評言には、私も力づけられる思いです。おそらく宗教の優劣を判定する物差しは、儀式化・慣例化の傾向がさかんに広まるなかで、その宗教がいくたびよみがえり、その傾向に立ち向かうことができるかということでしょう。たぶん仏教にとって本当に危険なのは、政治権力者による宗教権力者の支配や宗教の私物化よりも、むしろ「五戒」の第一(「不殺生戒」)である慈悲(カルナ)からみずからを絶縁してしまうことでしょう。
 慈悲心のある人は、他者の苦しみに共感することができます。時として、私たちはだれしも、他の人々の苦しみを自分のものとして感じることがあります。いや、他の人々に苦しみを与える人間の苦しみ、また自然界の苦しみを、分かち合うことさえあるものです。私たちは、みずからの「ドゥッカ」(苦しみ)を増やすという危険を冒してでも、そうした時折の感情をもっと増幅し、強めなければなりません。それによって他者の苦しみを和らげてあげられると悟ったとき、私たちは、自身と他者の双方の業(カルマ)が改善されるという形で報われるのです。
 では、これまで話してきたことを要約しながら、私なりの仏教的精神にもとづいて、発展と環境に関する具体的な提案を、いくつか述べてみましょう。
 (一)人間の住む共同体の規模は現在よりもずっと小さなものにし、できれば住民の数は、人々が自然に親しみ住民同士も親密に暮らすことができるよう、五千人以内におさえるべきです。
 (二)これらの居住地の住民は、衣料、食料、住居とその建築資材、教育、保健、さらに幼児、高齢者、病人、心身障害者の社会的な世話を自給自足できるように努めるべきです。自給自足を持久性のある(つまり再生可能な、もっと簡単に言えば長つづきする)ものにするため、多角的な農業、水栽培、バイオマス・風・波・熱・太陽等のエネルギーの交換等を行わなければなりません。
 (三)非物質的・精神的なものの生産・分配・消費を奨励すべきです。今、世界のあちこちで数多くの共同体が画廊や博物館を経営したり、祭典・セミナー・会議等を主催したりして生計を立てています。これは営利主義的・資本主義的であるにはちがいありませんが、なおそこに何か興味深いものが起こっていることは確かです。人々のこうした催しへの傾倒は、もちろん現代的な形をとっており、当時ほど教理的なものではありませんが、かつての中世の人々の僧院や大聖堂への献身を思わせるものがあります。経済活動から生じる余剰は、文化的・精神的活動のためにより多くを、そしていずれにせよ長つづきすることのない経済成長のためにはより少なく、割り振るべきです。
 (四)各共同体間を結ぶ性能のすぐれた交通機関、通信施設を備えなければなりません。人々はお互いの、そして自然との接触はつねに緊密に保たなければなりませんが、自分の好みに合わせて居住地やライフスタイルを変えることはいっこうにさしつかえないといえましょう。
3  池田 「縁起」「苦楽」「五戒」などの仏教の基礎的な教説を用いて、地球的連帯、開発の条件、環境問題など、現代的な問題群に光を当ててくださいました。
 とくに縁起説が地球的な連帯の基礎になりうるとされている点は、まったく同感であり、私も年来、思索してきた点です。縁起説はこれまで、無常あるいは無我の説との関連で語られてきました。つまり「すべては縁りて起こるのであるから、常住ではなく、また実体ではない」と否定的に理解されてきたのです。しかし、こうした否定的な言い方は、権威化し、形式化したバラモン教のもとで、創造性を失ったインド社会を背景として意味を持ったのではないかと思います。創造性をよみがえらせるためには、形骸化した社会の根にある人間の欲望と迷いの牢固たる連鎖を打ち破らなければなりません。無常、無我という否定的表現をとったのは、そのためではないでしょうか。
 私はここで、ニーチェの「受動的ニヒリズム」と「能動的ニヒリズム」の区別を思い起こします。ご存じのように受動的ニヒリズムとは「精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム」(『ニーチェ全集』11、原佑訳、理想社)、能動的ニヒリズムとは「精神の上昇した権力の徴候としてのニヒリズム」(同前)です。この能動的なニヒリズムは、徹底した否定の先に「新しい価値定立」を志向しているとニーチェは述べています。その新しい価値定立の原理が「力への意志」となるわけです。
 釈尊当時の形骸化したインド社会には、おそらく精神の力の衰退、つまり受動的ニヒリズムが蔓延していたのではないでしょうか。輪廻説は、その一つの現れでしょう。この説は、人々に現世の生を甘受させるイデオロギー的な機能を持っており、当時の身分社会の固定化に役立ったと考えられます。釈尊が無常、無我というような否定的な表現に徹したのは、ニーチェの図式をあてはめれば、能動的ニヒリズムにあたるのではないでしょうか。とすれば、それは当然「新しい価値定立」を志向しているわけです。
 無常や無我は、いわば“悟りへの往路”です。しかも経由すべき一つの里程標にすぎません。大乗仏教では、これを「方便」と呼んでいます。そして、往路の目標である悟りを得た主体は、新しい価値創造、文化創造を担うことになります。この価値創造、文化創造の道が“悟りからの復路”です。つまり悟りは、新しい価値を創造する主体の確立を意味するのです。この復路の次元では、一切の相互連関を説く縁起説は、“あらゆる可能性に開かれた創造的主体”を指し示していると言えます。
 興味深いことに、ニーチェも「力への意志」を論ずるなかで、人間について縁起的な認識を述べています。たとえば「自我は、諸項の連鎖におけるたんなる一単位であるよりも、百倍もそれ以上のものである。それは、徹頭徹尾、その連鎖自身であり、また人類は、これら諸連鎖の多様性とその部分的類似性とからのたんなる抽象にすぎない」(前掲『ニーチェ全集』12)とあります。要するに、人間も人類も連鎖そのものであると言うのです。こうした縁起的な人間認識から見れば、ニーチェが新しい価値定立の原理とした「力への意志」とは、開かれた人間による「可能性への意志」であるとも言えます。ちなみに、ドイツ語の「力(マハト)」は、「可能性(メークリヒカイト)」と語源を同じくする言葉です。
 たしかに、西洋から見れば、無我の説は個人主義の毒に対するある種の解毒作用があり、それなりに新鮮な意味があるでしょう。しかし、仏教思想史的に見れば、先に述べた往路・復路という大きな文脈から外れて、無常や無我の説がそれ自体固定化されると、「我の消滅が悟りである」というような短絡的な理解におちいり、かえって釈尊が克服しようとした受動的ニヒリズムに帰結することが証明されています。それは言うまでもなく二乗の問題です。二乗は、悟りを自己目的化して価値創造の道を忘れるとともに、その悟りについても自我の消滅によって得られるという浅い理解に止まってしまいます。低い悟りに安住するという二乗的傾向は、明らかに精神的な後退現象であり、容易に受動的ニヒリズムにおちいります。
 私は、こうした仏教思想史の教訓から、縁起説が本当に地球的連帯の基礎になりうるためには、縁起を無常や無我と関連づけるこれまでの文脈から離れて、“復路”としての価値創造の道、ニーチェの言葉を使えば「新しい価値定立」の文脈で再解釈することが必要だと考えています。
 そのためにはまず、縁起説を人間主体の在り方として解釈しなければなりません。それは、先にも述べましたように、“あらゆる可能性に開かれた人間”という捉え方であり、すなわち“生成脈動してやまない縁起的世界の力を汲み上げることができる人間”ということになります。この力を私は「内発的な力」と呼んでおります。
 また、認識としての縁起説をエートス化した「共生のエートス」を地球市民が共有していくことが必要だと思っています。この「共生のエートス」について私は、先にもふれたように、中国社会科学院での講演で「対立よりも調和、分裂よりも結合、“われ”よりも“われわれ”を基調に、人間同士が、また人間と自然とが、共に生き、支え合いながら、共々に繁栄していこうという心的傾向」と定義しました。縁起説は、このような「共生のエートス」という形を得て、初めて地球的連帯への具体的な力となっていけるのではないでしょうか。
 この「共生のエートス」は、能動的ニヒリズムとは異なり、調和的、平和的な変革の力になりえます。能動的ニヒリズムは、新しい価値定立への志向を持つとはいえ、その前提としてどうしても破壊がともないます。しかも、それはしばしば暴力的な破壊です。破壊をともなわない価値創造の道は「共生のエートス」なくしてありえないと思います。
 かつて六〇年代後半から七〇年代前半にかけて世界的な規模で起こった学生運動は、近代的な価値を全面的に否定していくもので、ニーチェの言う能動的ニヒリズムが具体的に現れたものと言えます。しかし、それは結局、破壊と分裂に終始するものでした。しかも、ニーチェが「破壊されんがために破壊する」(『ニーチェ全集』11、原佑訳理想社)と能動的ニヒリズムを性格づけているように、自己破壊への衝動が破壊的な行為を生むのです。既存の価値の否定が自己否定に、自己否定が自己破壊にいたるわけです。なぜそうなるかといえば、既存の価値を根底的に批判すれば、それに依存していた自分を否定せざるをえなくなるからです。
 こうした破壊の道を防ぐためには、みずからの内なる価値に目覚めなければなりません。外側の価値に依存するのではなく、内なる価値を拠り所とする――これ以外に平和的な価値創造の道はないと思います。
 その内なる価値とは結局、「生命の尊厳」であると思います。一切の存在が縁起的存在であるならば、一切が自己の内なるものとして捉えられます。その自他の生命が融合する内なる地平において「生命の尊厳」の価値が脈打っているのです。日蓮大聖人は、植物が春に風雨の縁に合って花を咲かせ、秋には月光の縁に合って実を成らせて一切の有情を養っていくのは、仏性の現れだとされています。また、地・水・火・風・空という物質を構成する要素にも、それぞれ他を利益する働きがあると述べられています。つまり日蓮大聖人は、縁起的世界の根底に仏性や慈悲を見られているのです。
 この内的にして普遍的な価値としての「生命の尊厳」を自覚していくことこそ、「共生のエートス」を形成していくための要でしょう。
 ガルトゥング ただ今、挙げられたさまざまな考察が、いずれも普遍性をもっているのは、心強いかぎりです。仏教は、個人の心や「集団的無意識」についてばかりでなく、あらゆる生命について説き明かしている深遠な心理学です。そこでは、どんな「超越者」の意思にも従う必要がありません。こうした「超越者」というものは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の場合に明らかなように、それらを生みだした側の人間の特性をどうしてもおびているものです。
 仏教は、その非暴力への強い主張、自然界を利己的に利用してはならないとする態度、巧妙な詭弁などまったく含まない慈悲の精神など、世界的なエートスを生みだすための豊富な素材を備えており、しかもこれらはすべて、深い混迷にある今日の世界が切実に必要としているものです。

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