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日蓮大聖人・池田大作

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死刑廃止について  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 ところで、死刑制度の是非については、長い間、賛否両論がかわされています。結論から言えば、私は、仏法者の立場から死刑制度には反対です。何と言っても、死刑は国家権力による暴力の一つの極限的あらわれであるからです。
 また一般に死刑廃止反対論者が主張するように、はたして、悪質な犯罪を抑止することができるかどうかには疑問があります。統計的にも、死刑のない社会に凶悪犯罪が多いとは言えないようです。また、裁判における誤判がありうるのも事実です。何よりも、人為的に生命を奪う権利は、何人にも、どのような理由によってもありえないことと私は考えます。文豪ヴィクトル・ユゴーは、あの動乱の時代においてさえ死刑廃止を強く主張しました。彼は死刑囚にこう言わせます。「おちつきはらって、儀式ばって、よいこととして、私を殺す。ああ!」(ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』豊島与志雄訳、岩波書店)。ユゴーは、終身刑でことたりるとしています。また、囚人の無辜なる家族を地獄におとすことなども、問題点としてあげています。
 たしかに、ゲーテが「社会が死刑の法律を廃止すれば、すぐまた一種の正当防衛がはじまる。すなわち、仇討ちの復活である」(『ゲーテ全集』10、大山定一訳、人文書院)と述べているように、因果応報への欲求は、人間に本然的なものです。しかし、人間が人間を裁くという情念をつきぬけた、ある種の強者の境涯――ガンジーが「敵を赦すことは敵を罰するより雄々しい」と語っているような境地を想定し得ずして、非暴力を論ずることはできないと思うのです。
 ガルトゥング いやしくも“文明社会”の名に値する社会であるならば、そこでは死刑という蛮行をほしいままに行うようなことはないでしょう。この重要なテーマについては、犯罪と刑罰という一般論の枠組みの中で考えてみれば、あるいは得るところがあるのではないかと思われます。何よりも重要なことは、この問題を「水平的」にあつかうか、「垂直的」にあつかうかです。前者の場合は、悪事を働いた者が自分の犯罪行為を正面から直視して、何が間違っていたのか、またどうすれば将来のためにカルマ(業)を改善できるかを見いだそうとします。罪を犯した側は、その罪を償うために、盗んだ金を返す、負わせた傷を癒してやる等の行為をしなければなりません。実際に、世の中の悪事というものは、見かけよりも多くの場合、このような形で解決されているものです。この「水平的」なアプローチは、和解と自己改善を結び合わせた、成熟した方法です。ところが現行の法体系は、そのようにはなっていないのです。
 この「水平的」なアプローチは、だれでも対処できるというものではありません。強姦された女性、あるいは殺害された人の遺族に、加害者を許すよう求めるのは、あまりにも過大な要求となります。これらの人たちが、復讐を望むのも無理からぬことです。事実、「禁固」の目的は、犯罪者を拘禁という形で罰するとともに、復讐を望む人間が近づけないようにして、さらなる犯罪を防ぐことにもあります。「垂直的」な犯罪処理法は死刑においてその極に達しますが、この制度によって、神の属性としての生殺与奪権が国家に与えられるのです。
 あなたと同じく、私も死刑に反対です。それは、だれ人にも生命を破壊する権利はないと信じるからです。さらに言えば、死刑は殺人を合法化するがゆえに、私は死刑に反対です。おっしゃるとおり、死刑は犯罪を防ぐどころか、むしろ助長しているように思われます。そのうえ、国内で生命を奪うことを容認するような国は、国外ではさらに躊躇なく生命を奪うことでしょう。アメリカが犯してきた何百回もの軍事介入は、私が言わんとしていることの適例なのです。

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