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日蓮大聖人・池田大作

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ガンジー④広い宗教観  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 ここでガンジーの人間観について、ふれておきたいと思います。ガンジーがヒンドゥー教徒であることは周知の事実です。しかし彼の言葉のなかには、たった一カ所、私は仏教徒であるかも知れない、と述べているところがあり、その言葉にひかれてガルトゥング博士は仏教に関心をいだくようになられた。これはたいへんに興味深い精神の旅路である、と私には思われてなりません。
 細かい詮議は別にして、インドにおいてもガンジーは、釈尊の思想の正統な後継者として受けとめられ、尊敬されています。博士はまた、カースト制度の拒否に見られるガンジーの思想と行動はまったく仏教徒のそれである、とも述べておられます。そこでおうかがいしたいのは、ガンジーにおける“仏教的色彩”についてです。この点に関して、博士のお考えを、より詳しくお聞かせください。
 あわせて、ガンジーの宗教観と信仰態度についてもおたずねしたいと思います。彼を「折衷主義者」と非難する者に対して、ガンジーはこう答えています。「私の信仰は、最も広く可能な限りの寛容に基礎を置いた信仰である」(『ヤング・インディア』一九二七・一二・二二)と。ガンジーはいわゆる“宗派主義”の桎梏から最も遠い信仰者であったと私は感じております。
 ガルトゥング ガンジーはきわめて超宗派的な人でした。彼はヒンドゥー社会のカーストでは、商業を営むヴァイシャ(平民階級)のなかのバニヤ(商人)の出身でした。仏教は、いくつかの基本的な点で、膨大なヒンドゥー教の伝統内に起こった一つの改革運動であり、このためヒンドゥー教と共通する特徴が数多くあります。「ヒンドゥー教」という名称自体、この深遠な諸哲学の膨大な集成体を示す用語としては、まことに不適当なものです。私は、ガンジーの仏教徒的な傾向を、ただ今ふれた集成体のなかの、三つの方向性に見ております。
 第一は、いうまでもなく彼の非暴力(アヒンサー)への強い主張に見られるものです。そこでは彼は、非暴力をたんなる理想ではなく実践すべきものであるとし、その対象も生きとし生けるものすべてであり、また、牛の崇拝も象徴的な意味では非常に重要ではあるが、非暴力の対象となる動物は牛に限るものではない、としています。ガンジーの菜食主義はまさにこのアヒンサーの信条と一致しています。私も基本的にはそうした菜食主義に賛同し、また、私自身、もっと菜食主義に徹することができるよう願っています。
 ガンジーの仏教徒的な方向性の第二は、「垂直的」な(上下の身分差別の)カースト制度への反対に見られるものです。ただし、そのなかでも彼はヴァルナ――四姓に特有の職業のことで、ドイツ語で言う「ベルーフ」(天職)――は、世襲として維持させました。彼は、生まれながらにして職業が決まっているのは、生まれながらに性別が決まっているのと同じで、それは有益なことであり、むしろあれこれと選択に迷う必要もなく、自身の精神的な成長に専念することができると考えていました。
 しかしその一方、彼は、カースト制度の「垂直的」な身分差別によって四姓外民や四姓の最下位であるシュードラ(奴隷階級)が虐待されていることに対しては、猛烈に反対しました。彼が心に描いていたのは、上下の差別のない「水平的」なカースト制度であり、そこではあらゆる職業が、またさまざまな要素が共生的に結び合うなかで対等にあつかわれるというものでした。すなわち、すべての職業は尊厳でなければならず、また、すべての職業の尊厳は可能なかぎり同等でなければなりませんでした。
 第三は、彼が、仏教のサンガ(僧伽)――修行者たちの共同体――の概念によく似た小規模な共同体、つまり自治的な村落に強く魅力を感じていたことです。ガンジーの共同体にあるのは、寺院と水槽または井戸だけです。各人の必要を満たすだけのものはありますが、各人の貪欲を満足させるほどのものはありません。このため最底辺の人たちが極貧に喘ぐこともなければ、最上層の人たちが法外な富を蓄積することもないのです。彼がいだいていた理想とは、ブラーマン(僧侶階級)やクシャトリヤ(武士階級)やヴァイシャ(平民階級)によって運営されるような、またヒンドゥー教とまったく合致するような、大都市型のそれとはおよそかけ離れたものでした。
 以上三つの点で――またその他いくつかの点で――正統派ヒンドゥー教から逸脱していたがゆえに、ガンジーは生命を失うことになります。彼を暗殺したナシュラム・ゴードセイはあるいは狂信者といわれ、あるいは正統派ヒンドゥー教徒ともいわれていますが、彼はあきらかにそのどちらでもありません。彼はたんにガンジーを、ヒンドゥー教への、また、まさに生まれようとしていた近代的な(ということは、より西洋的な)インドへの、反逆者と考えただけなのです。ゴードセイは、彼自身ボンベイ近郊のヒンドゥー教の一拠点であるプネーのブラーマン(僧侶階級)出身であり、植民地解放後のインドは「垂直的」なカースト制と古来のクシャトリヤ(武士階級)の伝統に立つ、強力な軍隊を持つ必要があると信じていました。このゴードセイの見解は、一九七〇年代のモラルジ・デサイを首班とするジャナタ(人民)党短期政権を唯一の例外として、歴代のインド政府当局の見解とも一致するものだったのですが、当然、ガンジーのそれとは鋭く対立するものでした。こうした対立の結果が、ガンジーの死であったわけです。
 ガンジーは、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教からもインスピレーションを得ていました。彼はそれらの宗教から何かを学びたいと思っており、また、この三宗教をより高い目的の達成に向けて協調させるための一助として、それらの類似点を指摘しました。このように、ガンジーは西洋の宗教に目を向けてはいましたが、極東の主要な宗教、たとえば道教・儒教・神道等には関心がなかったようであり、また仏教そのものには、概して言及しておりません。
2  池田 ご指摘の三つの方向性を勘案していくと、仏教、ヒンドゥー教などの宗派性を離れて、ガンジーのたぐいまれな現実感覚というか、秩序感覚が感じられてなりません。とくに第二点、第三点などは、人間社会がどのようにして成り立ち、営まれていくのか、どのような状態に置かれた時、人間は充足感と輝きを示していくのかということを、彼は知悉していたように思います。
 たしかに、カースト制度に付随するヴァルナ(天職)の世襲に賛成している点など、欧米流の自由・平等観からみると、不徹底で物足りなく感じられるかもしれません。しかし、欧米といわず、インド・日本といわず、なべて人間の社会というものは、過度に流動化が強まると、必ず混乱を生じてしまうものです。すべてに“自由・平等なる個”という物差しを当てがって裁断し、人々を過去の桎梏から解き放ってしまうならば、よいようでいて、未来はきわめて不透明なものになってしまいます。自由・平等という言葉のみが独り歩きし、現実との違いから必然的に人々の心には不安と不満が生じてくるでしょう。
 ヨーロッパの歴史において、産業革命による都市化、流民化がもたらした事態が、まさにそれでした。動きのない社会というのも、停滞し活気が失われてしまいますが、逆に変化が激しすぎると、それについていけない人心は動揺し、社会の混乱は増大し、世代間の断絶や犯罪の多発化といった事態に繋がっていきます。このような、いわゆる都市化の病理を鋭く見破っていたであろうガンジーが、小規模な共同体に共感を寄せたのも、当然のことといえましょう。
 「善いことというものは、カタツムリの速度で動くものである」とは、あまりにも有名なガンジーの言葉ですが、彼のいう変革とは、明らかに社会の急進的革命ではなく、漸進的変化を志向していました。
 私は、ガンジーのそうした現実感覚、秩序感覚は、仏法の「中道」思想と共鳴し合う点が多いと思います。「有」と「無」の間の中道、「苦」と「楽」との間の中道、「断見」(生命は死をもって終わるとする考え)と「常見」(自我が同じ状態で三世にわたりつづくとする考え)との間の中道――それらは、曇りなき眼で如実に現実を直視しようとする仏法の知見ですが、ガンジー主義とも深く根を通じていると思います。
 ガルトゥング ガンジーが仏法の「中道」思想を知っていたのかどうか、私にははっきりとは断言できません。大都市も大規模産業も英国帝国主義の手段でしたから、ガンジーがそれらを否定的に見ていたのは理解できることです。しかし、都市や産業を人間的なものにするのは、可能なことではないでしょうか。都市は、かなり自治的な隣人同士の連合体にすることができるでしょうし、産業もまた、同様のやり方で改善できるでしょう。ユーザーとしての人間を堕落させたり、自然環境を破壊することのないテクノロジーを開発することもできるはずです。大きな工場やオフィス・ビルで働くよりも、自宅で仕事をする人たちのほうが多くなるということもありうるでしょう。
 ガンジーが非暴力を唱えたのは、暴力か降伏かという二者択一に代わる、別な選択肢としてでした。今、私が提案している都市や産業の改造も、これと同じように、都市か農村かという選択、大規模産業か家内工業ないし農業かという選択に代わる、別な選択肢となるでしょう。
 ガンジーが「中道」をどのように認識していたかという点で、今、申し上げたような領域では、この概念を展開することはなかったと思われます。あるとすれば、それは彼の言葉や行動のなかによりも、むしろ彼の精神のなかにうかがうことができましょう。彼の感化を受けた幾百万という人々は、それぞれ己の「中道」を実践するよう努力しなければなりません。その目標へ向けての行動が今、世界中でとられつつあり、とりわけそれに活力を吹き込んでいるのが緑の運動の諸活動です。

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