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ガンジー③人間革命か、社会革命か  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 この数年来、私たちが目のあたりにしてきた暴力と強権にもとづく政治機構のあえない最期――ソ連・東欧の崩壊――を、ガンジーは世界のだれよりもいちはやく正確に予言していたといえるのではないでしょうか。
 一九三一年十二月、スイス・レマン湖畔に病身のロマン・ロランを訪ねたガンジーは、「ロシアで起っていることは謎である。その実験の最終的成功については深い疑惑をいだいている。それは非暴力への一つの挑戦のように思える。成功するようにみえても、その成功の背後には暴力がある。ロシアの影響のもとにあるインド人たちは、極度に不寛容になっている」(山口三夫『暴力と非暴力のあいだ』蝸牛社)と語っています。
 いうまでもなく、当時、社会主義といえば危機的状況を呈していた資本主義体制に代わる“希望の星”として、ロランをはじめ多くの心ある人々を魅了していました。そうしたなかにあって、限られた情報のもと、もっぱら体験によって鍛え上げられた“曇りなき眼”で、暴力や不寛容というボルシェヴィズムの宿命的ともいうべき悪をえぐっているガンジーの先見性は特筆すべきでしょう。
 こうした卓越した先見の“目”は、何によって生まれたのか――。私は、ガンジーが人間の内面世界の無限の可能性を信じ、徹底して凝視しつづけたからであると思います。それは、人間を“社会的諸関係の総体”と位置づけ、もっぱら外面的世界からの人間へのアプローチに専念しつづけるマルクス・レーニン主義とは、対極に位置する考え方であります。その意味からも、ガンジー主義の存在は、人間にとってより根本的なのは、人間革命なのか社会革命なのかというテーマに、貴重な解答を示してくれていると思うのです。
 ガルトゥング ガンジーがロマン・ロランを訪ねた折に語った彼の見解には、私もその優れた先見の明に感銘を受けております。ガンジーにとって、手段と目的はつねに首尾一貫していなければならず、また同一の倫理的信念にもとづいていなければなりませんでした。その信念とは「暴力から生まれるものは暴力だけである」ということです。同様に、非暴力から生まれるものは非暴力です。これは今日のイギリスとインドの親しい関係をみればわかることです。また、おっしゃるとおり、国家ボルシェヴィズムが生みだしたものは、ロシア人と全ソ連帝国の住民に対する暴力だけでした。生命が尊厳視されないところでは、死がその報いとなるわけです。
 しかし、ロシアに下したガンジーの批判は西洋にもあてはまるものです。フランス革命は一般には偉大な解放と称賛されていますが、実際にはきわめて残酷かつ血にまみれたものでした。しかもこの革命と、ヨーロッパ支配のためのナポレオンの数々の戦争の関係は、一般に見すごされています。アメリカ合衆国もまた流血によって誕生しました。まず、ほぼ三百万人のアメリカ先住民への集団大虐殺(ジェノサイド)が行われ、その後、先住民たちは、構造的暴力のきわめて悪質な形態の一つである指定居留地に押し込められました。多数の先住民が今日なおこうした居留地に住んでおり、この悲惨な状態はいつ終わるのか、見当もつきません。一七七六年から一八一二年にいたる独立のための闘争は、きわめて暴力的なものでした。これは一八六一年から一八六五年にかけての残酷な流血の南北戦争にあっても同様であり、その主な目的は、合衆国の分裂を防ぐことにありました。奴隷制度の廃止は、二次的な問題にすぎなかったのです。
 こうした革命的な闘争の目標は、その闘争を行う人々が本来もっている暴力的な傾向を助長したり強めたりすることなしに、非暴力的に達成できたはずなのです。しかし、実際にはそうした傾向は強められ、後に植民地化や奴隷制度や、アメリカがこれまで二百回以上も犯している軍事介入となって現れたのでした。またフランスも、その旧植民地に対して、少なくとも十四回の軍事介入をしています。こうしたことからもわかるように、ロシアでの暴力についてのガンジーの言葉は、それ以外の国々にもあてはまるものです。
 池田 私はガンジー主義にふれて、人間革命と社会革命の問題を提起しました。博士の発言はそこから転じて、もっぱら西側諸国の体質的な欠陥をめぐって展開されました。それはそれとして、ガンジーは社会主義を達成する前提として次のように語っています。
 「社会主義は水晶のように純粋である。したがって、社会主義達成のためには水晶のような手段が必要となる。不純な手段は目的を不浄にして終わることになる。(中略)したがって、インドにおいても世界においても、社会主義的社会を築くことができるのは、純粋な心の持主で、誠実にして非暴力的な社会主義者のみである」(『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞新聞社)
 これこそは、人間革命を根本とせねばならないとの逆説的証明ではないでしょうか。人間存在というものを“社会的諸関係の総体”として捉える社会主義=マルクス主義は、それゆえ、人間を社会環境のなかへ埋没させ、社会的諸関係の基盤をなす生産関係の改革、体制の変革こそ一切に優先するという倒錯した図式を描いてきました。ガンジーは、その倒錯を鋭く見破り、一切の原点は人間にあること、すべての“外なる変革”は、“内なる変革”を踏まえてこそ永続的になしとげることが可能になること、激動の時代であればあるほど揺れ動く状況に翻弄されることなく人間は自身の内部を見つめねばならない、という永遠の命題に立ち還るよう、私たちにうながしているようです。
 ガルトゥング まったくおっしゃるとおりです。ただ今のご発言は、資本主義や軍部を憎むあまり、革命の犠牲者たちへの同情を忘れ、あるいは同情心を起こすこともない左翼の人々にとって、大きな教訓となりましょう。他者との「外なる対話」も自身との「内なる対話」もできる豊かな人間の能力は、自己の内面を探究するよい出発点をもたらしてくれます。
 私の考えでは、「内なる対話」と「外なる対話」とが相まって仏教の実践の真髄をなすのだと思います。ソ連の場合は、その両方が無視されました。つまり、既成概念を検討すべき「内なる対話」の代わりにドグマ的な社会主義的決定論が幅をきかせ、「外なる対話」の代わりに暴力的行動がしばしばとられたのでした。ソ連がやったことは、ガンジーが創始した革命からみるならば、たんなるパロディーであり漫画にすぎませんでした。当然のことながら、ソ連の体制は失敗に終わりました。歴史は時として、苛酷かつ厳正な裁判官なのです。

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