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日蓮大聖人・池田大作

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ガンジー②非暴力と構造的暴力  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 博士の比較的最近の論文「東欧一九八九年秋なにが、なぜ起こったのか」を拝見して、とりわけ興味深かったのは、ルーマニアを唯一の例外とする“東欧無血革命”の謎を解明した個所でした。
 すなわち、一九五六年のハンガリー動乱が象徴するように本来「自由への闘争における非暴力的アプローチは、ヨーロッパの伝統ではない」にもかかわらず、「火炎瓶一本の投下でも軍事介入の口実になりえた」東欧革命が平和裡に達成された理由を、アメリカや南アフリカの黒人運動を通じて非暴力が浸透し「ガンジー主義が急速に世界の政治文化の一部になった」ゆえであると。
 軍事力を背景として圧迫する国家に抗したのは、ガンジーの非暴力に深く共鳴して立った民衆のパワーでした。このような内発性にもとづく力を私は、軍事力や富などの外面的な力であるハード・パワーに対比してソフト・パワーと位置づけておりますが、東欧無血革命は、まさに民衆のソフト・パワーの勝利と思われてなりません。
 東欧革命において、ガンジーの非暴力主義は今日的有効性を見事に証明したと思われますが、それでは第三世界における構造的暴力にも有効なのかどうか、また、博士の著名な論文「帝国主義の構造理論」に示された構造的暴力を生む支配の一形態である「帝国主義」、すなわち世界が「中心」――「周辺」関係として構造化されていくメカニズムにはどうなのか、見解をお聞きしたいと思います。
 ガルトゥング ガンジーは直接的暴力に対しては非暴力的防衛をもって応え、構造的暴力には非暴力革命をもって対抗しました。あなたは、こうした方策が帝国主義の構造に対しても有効なのかとおたずねになりました。この方策は、世界史上最も残酷な帝国主義構造の一つであった大英帝国の構造下では、たしかに成功しました。しかし、残念ながら、ひとたび英国帝国主義から自由と独立を勝ち取るや、いかにして勝利したかを忘れて、暴力的な同士討ちに身を落としてしまいました。
 こうした方策が有効となるための基本的な方式には、二つの要素があります。一つは「周辺部」(つまり弱い部分)を強化することであり、もう一つは「中心部」(強い部分)を弱めることです。スターリン後のソ連帝国の構造下のエリートたちは、自分たちの時代が終わりに近づいたころにははなはだ意気阻喪しており、外部からの働きかけに対して、西欧のエリートたちが思っていたよりもはるかにたやすく応じるようになっていました。かつて冷戦時代に社会主義国を訪問した人々はいずれもひどい非難を蒙ったものですが、私はそんなことは気にもかけず、スターリン後のエリートたちといくども会いました。そして、彼らの体制の不合理性と非効率性を指摘し、その代わりとなるより民主的な、より緑的な、社会民主的な、あるいは“日本式”の体制等があることを彼らに話したものです。
 私の経験では、実現可能な提案ほど、真の変革に功を奏するものはないと思われます。ポスト・スターリン主義政権は、一九八〇年以降、たとえばポーランドの「連帯」のような大衆抗議運動によって、また人権や自由選挙、市場経済といった明確な代替策によって、内部からはなはだしく弱められていきました。暴力というものは、早晩、それを振るった者の身に必ず返ってくるものです。
 しかし、西欧の帝国主義は、かつてない強烈さをもって第三世界にますます負債をおわせ、西欧への依存度を深めさせています。私には、パナマやイラクやセルビア等々の民衆が、西欧エリートの従順な下僕となることをきらい、独自のやり方で、よりよく、より公正な世界を築きたいと願っているというのも、よく理解できます。とはいえ、暴力に対して暴力をもって戦うというのは、道義的にも間違いであり、政治的にも愚かなことです。
 そのような試みをすれば、体制側の術中におちいるだけです。体制側は、暴力をどのように作動すべきかをじつによく心得ているものです。強力な「中心部」は、幾世紀にもわたる経験から他国民を挑発し、自分たちの言いなりにさせることに長けており、万一彼らに危害でも加えようものなら、彼らはその百倍もの報復をするかもしれません。逆に、非暴力的行動で対応すれば、それは彼らのもつ特質のうちの最善のものに呼びかけることになるでしょう。ガンジーがイギリス人に対してとった行動がまさにそれです。彼のやり方はこちこちのチャーチル型エリートには通じなかったかもしれませんが、他の多くのイギリス人に対しては成功を収めました。もしノリエガやサダム・フセインやミロシェビッチが非暴力的行動をとっていたならば、今ごろは彼らが同胞のために求めていた威信と正義を獲得していたかもしれません。ただし、そのためには彼らの目標を、より非暴力的な社会の諸原則に沿って再定義せざるを得なかったことでしょう。しかし実際には、彼らは暴力的介入を行い、そのため直接・間接にみずからを滅ぼす道をたどったのでした。
 弱い部分(「周辺部」)を強化するには、詳細な具体的未来像が必要であり、それも上から押しつけられたものではなく、何千回もの対話から生まれたものでなければなりません。強い「中心部」は弱い「周辺部」の心の中にまで浸透するものです。そこで「周辺部」としては、独自の意識を培い、あくまでも非暴力で対応しなければなりません。今日、世界の各地で、構造的暴力の最も悪質な形態の一つである「家父長制」に対する闘争のなかで、女性がそうした対応をしています。やがてまもなく、世界中の子どもたちが、大人の支配に対してそうした戦いに挑むかもしれません。
 次に――といってもそれを最初にやってもかまわないわけですが――「周辺部」のさまざまな市民グループが一緒に集まり、経験を交換し合い、体制側による分断、分割、限界化に対して戦うことによって、共同体制をとらなければなりません。今後やらなければならないことはまだたくさんあるにせよ、第三世界の諸国はこれを行ってきました。一九九三年六月のウィーン人権会議における「NGOフォーラム」がその好例です。たとえば「周辺部」の諸国は、かつてスカンジナビア諸国が行ったように、相互間の通商を拡大しなければなりません。「垂直的」な、搾取的な関係ではなく、「水平的」な通商のパートナーシップこそが、社会のあらゆる階層に豊かさをもたらしてくれるからです。
 同時に、それと同じくらい、いやもっと重要なことは、「周辺部」の諸国の市民たちが、自国内の往々にして非常に暴虐なエリートたちから、みずからを解放しなければならないということです。こうしたさまざまなプロセスが今日、世界中で進行中です。その最終地点はまだ視界に入ってきておりませんが、私は楽観視しております。
2  池田 この対談のやりとりを通して、西欧近代がもたらしたものに対する、博士の厳しい見方を、あらためて確認しました。しかし、私は、まぎれもない西欧近代の所産である、「自由」「民主」「人権」などの諸価値については、若干、博士と意見、評価を異にしています。
 もとより、それらの価値が、あの忌まわしい植民地支配、収奪と並行して確立されてきたという事実を無視することは、とうていできません。一九九二年、コロンブスによるアメリカ“発見”五百年を祝うにさいし、先住民族から激しい反発がまき起こったのは記憶に新しいところです。高邁なる理念と現実との間の落差がいかに大きかったかは、たとえば、キリスト教的ヒューマニストとして知られるフランスの哲学者エルネスト・ルナンにして、あたかもナチスの人種理論を思わせるような差別的言辞を残していることに、象徴されています。“密林の聖者”シュヴァイツァーにしても“五十歩百歩”です。
 そのような事情を十分に踏まえたうえで、私は「民主」や「自由」や「人権」の理念に、ある種の普遍的価値を認めたいと思います。博士のおっしゃるように、そうした抽象的な理念や観念は“諸刃の剣”であって、使いようによっては「自由」「民主」「人権」の名のもとに、“構造的暴力”を加速化させてしまいかねない――ということを承知のうえで、そう認めたいと思います。理念の内実化には、慎重のうえにも慎重を期さねばならず、画一主義的なやり方は禁物ですが、やがては人類が手にしなければならない共有財産であることは間違いないからです。
 アメリカでアーサー・シュレージンガーの『アメリカの分裂』がベストセラーになっていますが、その中にこんな一節があります。「西欧の伝統とその他地域の伝統とのあいだには決定的な相違がある。西欧の罪過は、それ自体の矯正手段を作り出したのだ。すなわち、奴隷制に終止符を打ち、女性の地位を高め、拷問を廃止し、人種差別とたたかい、研究と表現の自由を擁護し、個人の自由と人権を拡充する大々的な運動を惹起させたのである」(部留重人監訳、岩波書店)と。いうところの「矯正手段」がどの程度有効に作用しているかは、ロス暴動などを見ても議論の分かれるところでしょう。しかし、少なくとも私は、シュレージンガーのような人物も、博士の言われる「彼ら(欧米人)のなかの最上の人々」の一人に加えたいのです。ガンジー主義の有効性をいやまして高めていくためにも――。
 ガルトゥング ただ今のあなたのご評価には、私も賛成です。ヨーロッパという呼称は、古代アッシリア語で“暗さ”を意味するエルプ(erp)に由来します。ヨーロッパとアメリカ――つまり西洋――は、二つの顔と二つの声をもつ古代ローマの神ヤヌスに似て、二つの異なる側面をもっています。一方はソフトで情け深い側面であり、これは私も十分に高く評価していますが、もう一方にはハードで暴力的な側面があるのです。この暗いほうの側面からヨーロッパがみずからを解き放つのをどのように手助けすればよいか、それが問題です。私は、このソフトな側面が、“暗い”側面の口実となることを危惧しています。
 池田 古代ペルシャのゾロアスター教の分派であるマニ教は、周知のように、現象世界を明と暗とにたて分ける、極端なまでに簡明な善悪二元論によって、人心を捉えました。たしかに、マニ教に限らずそうした二元論は、善と悪、明と暗、敵と味方、愛と憎等をたて分ける明快さゆえに、ある種の人々の心にとり入り、呪縛してしまう力をもっておりました。ある種の人々とは、物事の真実を見極めるために、(ソクラテス的意味での)対話と思索を深めていく精神作業に耐えきれず、安易に解答を求めようとする人々のことですが、これはまた人間の傾向性一般でもあります。こうした傾向性は、古今東西を問わず、人間性の弱点として存在しており、古来、デマゴーグたちの人心収攬術の格好の餌食となってきました。
 私は、この傾向性がより顕著に見られるのは、多神教の世界よりも、唯一神に依る一神教の世界であると思います。もとより、マニ教的発想とローマ・カトリックを同列に論ずることはできず、両者の対立、相違の歴史は私も承知しております。しかし、その対立・相違は、キリスト教内部の旧教と新教がそうであったように、近しいがゆえに激しく憎み合う近親憎悪のきらいが濃厚であり、一神教的な伝統という点では、根を通じているのではないでしょうか。博士が、ヨーロッパの「ハードで暴力的な側面」とおっしゃるのは、敵と味方、善と悪とを安易に区別し差別してしまう、その伝統的な思考方法のもたらすところが大きいのではないでしょうか。
 こうした暗い伝統が、今もって断ち切れていないことは、旧ユーゴスラビアの内戦を通じて、民族浄化などといった差別思想が横行したり、ドイツやフランス、イタリアなどで、歴史の歯車を何十年も逆転させたかのような右翼・人種主義の台頭が見られることからも明らかです。
 ヨーロッパに限らず、現代人がこうした呪縛から解放されるためには、一にも二にも、悪というものを人間の内面に求めなければなりません。悪とは、第一義的に人間の内面にあるのであって、外なる悪というものは、第二義的なものにすぎないということを、徹底して自覚していかなければならないと思います。二十世紀の最大の教訓は、ファシズムのように民族・人種的なものであれ、コミュニズムのように階級的なものであれ、善悪の対立を第一義的に外部に求めてしまうと、途方もない悲劇と大量殺戮を招いてしまうということでした。ゆえに、二十一世紀へ向けて、私たちに課せられた焦眉の急務は、課題はまず内部にある、私たちの内面世界で内なる悪を超越することこそ、あらゆる改革のなかでも第一義的な重要事であるということです。私どもSGIでは、それを人間革命運動と呼んでおります。

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