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二十世紀の位置づけ  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 二十世紀は戦争と革命の世紀といわれております。たしかに、二度にわたる世界大戦、また、「革命」「反革命」ともにスターリニズムとナチズムという苛酷な全体主義を招来したという意味では、二十世紀の人類は空前ともいうべき悲劇に見舞われたともいえます。二十世紀という時代をどう意義づけるか、また二十世紀最後の十年、九〇年代をどういう時代にしていこうと決意するか――これは、いうまでもなく私たちすべてにとって重要なテーマです。
 ガルトゥング 私の現実的感覚からすると、二十世紀は戦争の世紀、直接的暴力の世紀、そして革命――一方では構造的暴力に対する革命、他方ではそれを擁護するための革命――の世紀として、歴史に刻まれるだろうと思います。現在、すでに冷戦は終わりを告げ、地球上の多くの地域が自由を享受しています。ところが、別な種類の全体主義が今なお幅をきかせています。それは、世界全体を西洋式の民主主義と放逸な市場経済の公式に従わせようとする人々による、全体主義なのです。
 一部の人々の見方からすれば、民主主義と自由市場の勝利は、一つの目標の達成と歴史の終焉を意味することになります。しかし、戦争という観点から民主主義諸国の前歴を見るとき、前途はさほどバラ色ではありません。もちろん、権力と繁栄の頂点に立っている彼らは、自分たちの間で争うよりも、むしろお互いに協力し、同盟を結び、共同体をつくり、連合体をすら組んで、世界の支配を分け合ってきたというのがだいたいの状況です。しかし、これまで彼らは世界のいたるところで植民地化のための戦争や、奴隷制度、抑圧、懲罰、内政干渉等々のための戦争をしてきたのです。また第一次世界大戦は、民主主義といえばまあ一応は民主主義といえる諸国間の戦争でした。このように、彼らの前歴は平和的どころではなく、戦争だらけだったのです。
 また、資本主義自体の前歴も決して芳しいものではありません。富裕な資本主義諸国は、自分たちのかかえる諸問題を輸出すること――これを負の(ネガティブ)「外部効果」(エクスターナリティーズ)と呼びますが――にかけては抜け目がありません。彼らはそうすることで、その周辺部に有害な影響を与えています。南ヨーロッパでファシズムが、東ヨーロッパで共産主義が、そして南東ヨーロッパでファシズムと共産主義の両方が起こったのは、資本主義とプロテスタンティズムを信奉する北西ヨーロッパからの、拡張主義的な圧力に対する反動だったのです。
 人間はだれしも、自分の思いどおりに自由にふるまいたいと思うものです。自分以外のどこかから生じた因果の鎖の最末端で、他人の尻拭いをしたいなどと思う人はおりません。今日、日本が、いわゆる自由貿易を強要するという形で現れているアメリカの全体主義を経験していることは、明らかです。ちなみに自由貿易(実際には管理貿易)の強要というこの姿勢は、十九世紀後半にアメリカ自身がとった姿勢――それによってアメリカはずいぶん得をしたのですが――と、まさに正反対のものなのです。
 もし、今世紀最後の十年間に何か意味を求めるとすれば、それは次のような信条に見いだされるにちがいありません。すなわち、民主主義・市場経済を押しつけようとする全体主義も、やはり空想的な処方箋でしかなく、それをスターリンやヒトラーの全体主義に取って代わるおあつらえ向きのものと考えてはならない、ということです。民主主義・市場経済という靴は、一部の人々の足にはぴったりと合うのです。しかし、間もなくわかることですが、その靴はきつくて足を痛めることもあるのです。
 うわべだけの先進諸国が、いつもの自己満悦で第一世界と呼んでいる地域から見れば、二十世紀は二度の世界大戦とホロコースト(大虐殺)という前代未聞の悲劇の時代でした。しかし、世界のその他の地域にとっては、二十世紀は――それがどれほど混乱に満ちたものであろうと――十九世紀およびそれ以前の植民地主義からの解放の時代でした。今世紀という世紀は、見方によって、あるときは悲劇に見え、あるときは解放の叙事詩に、またあるときには喜劇に、そしてときには茶番劇にすら見えるのです。
 しかし、今世紀はまた、人類の半数を占める女性への影響という面からいえば、まさに革命的な世紀でした。フェミニスト革命は、アメリカから起こりました。これは人類への一つの贈り物であり、環境問題への覚醒とともに、唯一この国から起こった真に革命と呼べるものです。一七七六年(アメリカ合衆国の独立)とそれ以後の数年間に起こった出来事は、抑圧と搾取によって得た分捕り品を母国と――この場合はイギリスと――分け合うのを拒否したという、ごくありふれた“西半球植民地物語”の一部にすぎません。しかも、アメリカ革命の思想的基盤は優れてギリシャ的、フランス的なものでした。
 しかし、フェミニストの反乱は生粋のアメリカ生まれですし、環境問題への覚醒のほうも大部分はそうです。興味深いのは、これらの運動が起こった国が、労働者階層があまりにも酷く搾取されているために彼らのつくる製品がしばしば粗悪で輸出に適しない、という状況の国だということです。労働者を使い捨てのガラクタのようにあつかえば、彼らもガラクタのような仕事しかしません。今日のアメリカは、搾取というものがどのような報いとなって自分に返ってくるのかを、如実に示してくれています。つまり搾取は、短期的には魅惑的であったとしても、その悪い結果は、搾取する者の側にたちまち襲いかかってくるのです。これに対して、日本のように労働者階層を優遇する国は、優れた製品をもって世界市場に登場できるのです。
 池田 ソ連邦の崩壊は西側諸国に、社会主義に対する“資本主義の勝利”“民主主義の勝利”を印象づけました。しかしながら、社会主義も資本主義も「近代」の産物であり、「近代」という土壌に咲いた双葉にすぎません。「近代」の特徴は“拡大主義”にあります。ポール・ヴァレリーが言うように、権力、資本、生産能率、外的自然改変等々の“最大限”を求めるのが、ヨーロッパ文明、すなわち近代文明の特徴です。その意味では、社会主義も資本主義も同根であり、その対立が終わったからといって、歴史が終わったなどとは、とうてい言えないのではないでしょうか。
 歴史は、近代のもたらした功罪を見すえ、その罪の部分、ひずみをどう是正していくかを要求しているといってよいでしょう。人間性を阻害する“拡大主義”を方向転換して、いかに文明の質的深化を図るか――言い換えれば、いかに「近代」を乗り越え、文明の新しい段階にいたるかが、冷戦後の世界に要請されている課題です。
 その指標こそ「人権」であり、そのためには、「人間生命」に最大価値を置く人間観を人類が共有し、内面化していくという作業が不可欠となります。ライナス・ポーリング博士との対談においても、来るべき世紀を「生命の世紀」にしていきたいという点で、互いに深く同意し合いました。過去の一切の思想もシステムも「人権」という観点から見直されるべきであり、その深まり、広がりをどう方向づけていくかが、二十世紀最後の十年にとって最も大切になってきます。私たちが「人間主義」を主張しているのは、その成否に真実の歴史の発展があると考えるからにほかなりません。

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