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日蓮大聖人・池田大作

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市場経済と計画経済  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 最近、共産党の一党支配に抵抗をつづけてきた旧東ドイツの一人の文化人が嘆いておりました。――われわれは、スターリン型の社会主義には反対だったし、新しい国づくりの理念に情熱を燃やしてきた。しかし、こうして統一ドイツが誕生してみると、われわれが求めていたのは強い「西ドイツ・マルク」以上の何であったのか、と。
 この嘆きは、現代史の直面しているアポリア(難問)を、見事に言い当てていると思います。ドミノ現象を思わせるような社会主義体制の崩壊は、押し止めようにも押し止められない「民主の流れ」を感じさせますが、その解放のエネルギーの行き着く先が、人間の金銭欲に鼻綱をとられた「カジノ主義」であったとすれば、もはや歴史の戯画というしかないでしょう。
 一時、フランシス・フクヤマ氏の「歴史の終わり」論が取りざたされました。私は、その趣旨に全面的には賛成しませんが、理念なき時代、退屈な時代ほど人間にとって恐るべき危機はないことも事実です。社会主義諸国に見られたような解放のエネルギーを、どう建設のエネルギーに転化させていくかが、今後の歴史の最大の課題となってくるのではないでしょうか。
 ガルトゥング 旧社会主義諸国は、今日、精神的に真空状態であり、そこには「歴史の終わり」を説く人々を含めて、あらゆるたぐいの大ぼら吹きが自由に入り込める状態です。それにしても「歴史の終わり」説などというものを信じることは、これらの国々にファシズムが台頭するのを早めるだけのことです。もしファシズムが台頭するとしたら、それがめざすものは、一面では労働者階層を支配し、彼らの尻を叩いて上流社会や西側諸国のために(そして、おそらくは日本のためにも)生産をさせることであり、もう一面では富裕で傲慢で拡張主義の西側に対して、新しいバリケードを築くことであるかもしれません。
 これらの旧社会主義国がいずれの道を選ぶにせよ、それを決めるのはもちろん彼ら自身ですが、私たちにも皆、自分の意見を言うだけの権利はあります。私個人の願いは、かつての社会主義諸国が自分達を第三世界の一部と見なし、現在、資本主義の周辺部にいる国々と一致団結するようになることです。市場経済体制は、中央集権的な計画経済よりも優れていますから、これらの国々は市場経済体制を拒否すべきではないでしょう。しかし彼らは、その周辺的な立場を抜け出すよう努力し、市場経済と計画経済をよりよく融合させるよう試みるべきでしょう。
 これを実行するにあたっては、旧社会主義諸国は、アフリカ統一機構(OAU)創設時の指導者の一人であるジュリアス・ニエレレが議長を務める「南」委員会の報告書『「南」への挑戦』から多くを学ぶことができます。この報告書の基本的な結論の一つは、いわゆる「南」の国々は西側からの援助を得ようと列をつくって待つのではなく、「南」同士で協力すべきだということです。列をつくって待つなどというのは不面目なことであり、発展とは逆の方向に行くことです。さて、アフリカで選奨される「南」対「南」の協力の形を東欧にもってくるならば、それは「東」対「東」の協力ということになるでしょう。東欧諸国が富裕な「欧州連合」のたんなる遠い片田舎という立場になることは、初めのうちこそ魅力的に映るかもしれませんが、やがてこれらの諸国が実際にそれを体験するようになった時、そして彼らの独自性がまったく失われ、詳細な計画はすべてブリュッセルやボンやワシントンから出されるようになった時、その魅力は著しく薄れてしまうことでしょう。
 池田 裕福で、傲慢で、拡張主義にとらわれてきた西側に対する博士の批判は当然でありますが、同時にその背後には“人間観の衰退”という事態がひそんでいることを見逃してはならないと思います。端的に申し上げれば、産業社会から脱産業社会へということが言われても、そこでは人間がもっぱら〈経済人〉としてのみとらえられている――ここに、今日の人間矮小化の一因があるのではないでしょうか。さらに言えば、この経済人にしても、アダム・スミスの時代に想定された人間像に比べて、今日のそれはさらにスケールが小さいようです。かつての経済人は、スミスが、人間の商業活動と徳の在り方を不可分の問題として考えていたように、時代と国家の命運を視野に収める気概をまだしもそなえていたのに対して、現代のビジネスマンはどうでしょうか。自分の家庭と、せいぜい自分の会社のことしか念頭にない、といったら言いすぎかもしれませんが、とにかく同じ経済人といってもはるかに矮小化してしまったように思えてならないのです。
 第三世界や旧植民地に対する西側のまなざしにも、このことは色濃く反映しています。彼らは、経済的観点からのみ世界をながめ、人間をとらえてきました。植民地主義が猛威をふるう以前の世界各地には、それなりに自足した豊かな社会と文化が根づいていたことは、今日の文化人類学が教えるところで、さらにはかの複眼の士モンテーニュもつとに指摘していたとおりです。しかし、植民地主義がたずさえる経済至上主義の刃は、土着の文化を切り刻み、収奪のかぎりを尽くしてきました。時代は移り変わったとはいえ、経済至上主義にもとづく人間観は依然として根強いのが現状です。
 人間を見つめるそうした一面的かつ狭小なまなざしは、ほかならぬ西側自身の内なる退廃をも招きます。豊かさのなかに暮らしながら、幸せのありかを見失っている姿などは、その端的な事例でしょう。もちろん、日本も例外ではありませんが……。
 新しい時代を拓くキーポイントは、この人間観の転換にあります。経済的な側面からではなく、人間を人間として全体的にとらえること――その全人性の回復こそが、今日の世界に要請される重大な課題ではないでしょうか。第三世界を見つめるまなざしも、人間の内なる無限の可能性への豊かな想像力に裏づけられた人間観に立たねばならない、と思います。

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