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対話の達人たち②  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 ミハイル・ゴルバチョフという人物の業績について、もう少し話をつづけたいと思います。試行錯誤をつづけたペレストロイカは、多くの点で残念ながら挫折を余儀なくされましたが、何といっても燦然と輝いているのが、グラスノスチだと思います。そして私は、このグラスノスチこそ、ゴルバチョフ氏の人間的資質の最も深いところと結びついていると思います。対話や言葉がよみがえってくるということは、とりも直さず、それを使う人間同士の信頼感の回復に他ならないからです。
 ペレストロイカが開始されることによって、言論は、徐々にそれ本来の力を発揮しだしました。人々は、権力をはばかることなく、本音をしゃべり始めました。たとえそれが、時に際限のない長広舌の競い合いになったとしても、以前の密閉された沈黙の言語空間からみれば、比べものにならないほど人間的です。私も、ゴルバチョフ氏とは、大統領時代に二度、そして一九九二年の四月、一九九三年の四月、九四年五月と計五度お会いし、その開放的な語り口から「対話のできる人」「率直に語る人」といった印象を強くもちました。
 ガルトゥング 歴史的人物ミハイル・セルゲーイェヴィッチ・ゴルバチョフ氏を高く評価されましたが、私もまったく同感です。
 ゴルバチョフ氏の存在それ自体が、すでに冷戦終結への必要条件の一つでした。(私の考えでは、必要条件がもう二つありました。一つは東欧における反体制運動であり、もう一つは、洋の東西を問わず全世界で展開された平和運動です)。ゴルバチョフ氏がロシアで不人気な理由は、いくつか挙げられるでしょう。そうした理由の一つは、単純なものです。彼はソ連帝国の内部分裂の責任を負わされたのです。またもう一つには、彼の人物があまりに大きすぎて、おそらく国内では受け入れられなかったのでしょう。「預言者故郷に容れられず」という言葉にも、それなりに一理あるのかもしれません。あるいはまたおそらくは、スターリン以後の状態に嫌悪感をいだく多数の人々が百八十度の転換を望んでいたのに、彼がそれを行わなかったため、国民はそのことに腹を立てているのでしょう。
 ゴルバチョフ氏は、市場原理を導入するとともに、社会から不幸を確実に払拭したいと思っていました。緩やかな連合体としてのソビエト連邦をめざしてはいましたが、完全な解体は望んでいませんでした。ゴルバチョフ氏の考え方は、一般の人々の要求に応えるには、あまりに複雑すぎるものでした。人々が要求していたのは、計画経済という一つの世俗の神から、市場経済という別の世俗の神への宗旨替え――すなわち、ある一神教から別の一神教への転換――にすぎなかったのであり、多神教や汎神論への転換ではなかったのです。しかし、やがて人々が、まったく掛け値なしの「周辺部」に置かれて指令的な資本主義の攻撃にさらされるという狂気じみた現状にうんざりするようになったとき――そうなることは間違いありませんが――ゴルバチョフ氏の出番が、またやって来るかもしれません。
 あなたと同じく、私も対話の価値を大いに重視しております。私がどれほど対話を重視しているかをおわかりいただくために、一つの逸話をお話ししたいと思います。一九六八年の九月、私は当時のドイツ民主共和国、つまり東ドイツ政府から招かれて、ワイマールでの公開討論会に出席しました。このことは私も予想しないでもなかったのですが、その討論会の目的が、一つはアメリカのベトナム侵略を糾弾することであり、もう一つは東ドイツの承認を推進するためであったことが、やがてわかりました。しかし、私は、東ドイツの承認は、冷戦による対立をより希望のもてる方向に導く必要条件の一つであると考えて、参加したのです。じつはたまたま私は、これに先立つその年の一月にベトナムに行き、また、同じ年、ワルシャワ条約機構軍によるプラハ侵攻という蛮行が行われた数日後に同市に行って、「非軍事防衛」に関する知識を人々のあいだに広めておりました。さて討論会では、私は初めにアメリカによるベトナムでの戦争に反対する発言を行い、それから話題をチェコスロバキアに転じました。
 私がその時に感じた聴衆の反応は、それまでに私が世界の各地で見てきたものと同じでした。かつてプリンストン大学での講演で、ヨーロッパから来た植民地主義者によるアメリカ先住民の大量虐殺、彼らによるその社会構造と文化の破壊について話した時の、学生たちの反応と同じだったのです。それらの各地では、講演会場にいるだれもが、私の主張が正しいことを知っていたのであり、それはワイマールの場合も同じでした。ところが、この話題はそこではタブーだったのです。このため聴衆は下を向き、講演者と視線が合うのを避け、努めてかかわりをもたないようにしていました。彼らは、その心苦しい状況が早く終わってくれることをひたすら願っていたのです。これでは対話ができるはずはありません。
 プリンストン大学では、私は予定どおり最後まで講演をすることができました。しかしワイマールでは、あの心苦しい状況は、まるで劇にでも出てくるような形で、だしぬけに終結したのです。講演中に、後方のドアが開いて、黒服を着た、まるでゴリラのような二人の屈強な男が現れました。私は、ワルシャワ条約機構軍のプラハ侵攻のこと、私がプラハで非軍事防衛についての資料を配布したことなどを話していました。すると、その二人は、私の両手両足をつかんで演壇から引き離しました。私はマイクにしがみつきましたが、幸いコードが長かったために、ほんの少しの時間はなんとか話をつづけることができました。しかしそれも束の間、たちまち外に引きずり出されて黒い車に押し入れられ、ただちに空港へと護送され、一般人が近づいてはならない人物として、そのまま国外退去になってしまったのです。
 東ドイツ政府当局が下した判断は、問題なのはプラハ市街での出来事ではなくて、私自身のほうだということだったのです。そこで彼らは、空港までの車中で私と話をさせるために、あるマルクス主義者の神学教授を同乗させました。当局者たちは、私がかかえているのは哲学上・道義上の問題なのだから、それをあつかうにはそうするのがいちばん良いと考えたのでしょう。
 この教授の論法はなかなか頭の良いものでした。彼は私に、「おそらく百万人にも達するインドシナ農民の殺戮と、ほとんど流血を見ることのなかったチェコスロバキア侵攻とでは、どちらが悪の程度が大きいでしょうか」とたずねてきました。これに対して私は、それはもちろん前者のほうが悪い旨を答え、次のように付け加えました。「西側はさかんに東側に悪口をあびせていますが、彼らのほうもひどい人種差別や偽善の罪を犯しています。しかし、だからといって、それは人々が熱望している自由の種子を打ち砕いてもいいということにはなりません。アメリカのことわざがうまく言い当てているように『他人も悪事をしているからといって自分の悪事が帳消しになるわけではない』のです」と。
 私が演壇から引き離されたのは、その国の政権にグラスノスチの伝統、すなわち自分の意見を表明し、人がいやがることでも堂々と発言し、話してはならぬとされていることも避けずに語るという伝統がなかったからです。かつては日本でも、天皇崇拝が同じような状況を生みだしたことがあり、そこではあらゆる社会秩序がきわめて強力なタブーのもとで機能したために、タブーに言及することすらもタブーになっていました。
 私は、ドイツはさまざまな面で民主的な国であると思っていますが、そのドイツにおいてすら、いまだにタブーに近いものが少なくとも四つあって、人々を苦しめています。一つは、アメリカについて少しでも突っ込んで論じることです。それは非常に強く暴力の名残を留めている国アメリカに対するドイツの隷属関係に、どうしてもふれることになるからです。次は、ユダヤ人とかイスラエルに関して語ることですが、その理由はだれにもおわかりのことでしょう。三つめは、欧州連合(EU)について語ることですが、それは、この連合体が多くの人々にとってすでに新たなドイツのアイデンティティーとなり、新たな母国となり、はてはドイツ・ナショナリズムに取って代わるものにすらなっているからです。そして最後は、ドイツ自体について少しでも突っ込んで論じることです。これらの事情が重なり合って、公開の場での討論への、かなり厳しい制約となっているのです。したがって、スターリン主義や脱スターリン主義の国ではタブーがより徹底していたとはいえ、それらの国々のみを非難するのは一方的です。民主主義にとって、自由な対話を妨げるタブーほど危険なものはありません。
 私たちはまた、検閲をする側の人間が、必ずしも編集長室の隣室で朱筆を揮っている下級官吏だけだと思い込んではなりません。検閲官は編集長の頭の中にいることもあれば、クローンとなって全編集員の頭の中に入っていることもあるのです。アメリカの新聞の多くが、うんざりするほど同じような内容になっているのは、そのせいなのでしょう。さいわいアメリカにはいくつかのすぐれた週刊誌や月刊誌がありますが、その購読者はきわめて少数です。拙著『アメリカ合衆国のグラスノスチ』(Glasnost’U.S.A.)(邦題仮訳)は、まさにこのあたりの事情を述べたものです。
 ゴルバチョフ氏は、自国民と世界の人々に真の対話をもたらしましたし、ヨーロッパの再活性化をもたらすうえでも効果的な役割を演じました。そして彼は、ある種の動物のように、果たすべき役目が終わると捨てられてしまいました。私たちは、彼が殺されなかったことをよしとしなければならないでしょう。
2  池田 おっしゃるとおり、ゴルバチョフ氏のいき方はきわめて複雑でした。しかし、それは何も彼の責任ではなく、当時のソ連の状況が必然的に強いたものであり、責任ある政治家としてのやむをえぬ選択でもありました。ペレストロイカにしても、試行錯誤はあったにせよ、グラスノスチを含む民主化のプロセスに対する彼の信念は不動のものがあり、事実、彼の仕事は、ソ連という国家と世界情勢を一変させました。これが、かつてだれもなしえなかった変革であることは否定できません。
 ゴルバチョフ氏を評して、ヤコブレフ氏(元ゴルバチョフ大統領首席顧問)は「みずから、自分の手にあった権力を手離して」「全世界の人々を世界大戦の恐怖から救い出」した「偉大な人物」と述べています。またブルラツキー氏(「文学新聞」前編集長)は「ゴルバチョフはソ連における議会制民主主義を信奉する政治家第一号といえる」と。そしてハベル・チェコ大統領は「ゴルバチョフは典型的官僚として、そのポストに就いたが、真の民主主義者としてそのポストを去った」と述べました。
 これらの評言は、ゴルバチョフ氏の人物とその業績がいかに卓越したものであったかを、正しく捉えています。
 言論は暴力とは対極に位置しています。ゴルバチョフ氏が、言論をペレストロイカの武器としたことは、民衆の支持なくしてペレストロイカが成功しないこと、そして武力や権力などの力がいかに表面的な成果をおさめようとも、民衆の意識変革なくしては、いかなる変革も結局は不毛であることを知っていたからにほかなりません。
 いかなる権力といえども、民衆の心の中に正当性の観念を植えつけられなかったら成り立ちません。また、たとえ成り立ったとしても、永続できません。あれほど堅牢に見えたソ連社会が、ペレストロイカの始まりとともに、ごく短期間で崩壊してしまったのは、ソ連人民の心から、共産党支配の正当性の観念がなくなり、逆に不信と疑いが増していたからといえましょう。そのことは、初めて代議員選挙が自由化された時、共産党の候補が軒並み落選したことにも端的にあらわれています。
 その、民衆の心の中に満ちみちていた鬱積した感情に、表現の通路を開き、民衆のありのままの心に呼びかけたのが、ゴルバチョフ氏の「対話」でした。博士は「ゴルバチョフは捨てられた」と言われましたが、そのことはゴルバチョフ氏自身、半ば予期していたことではなかったかと思います。氏は、クレムリンでの私との会見のさい、「ペレストロイカの第一は『自由』を与えたことです。しかし、その自由をどう使うかは、これからの課題です。たとえば、長い間、牢の中、井戸の中にいた人間が、突然、外に出たなら、太陽に目がくらんでしまうでしょう。それと同じように、せっかくの自由を、現在を見つめ、考えることにではなく、過去を振り返ることにのみ使う。世界の秩序を考えるよりも、国内にばかり目がいってしまう」とあたかもプラトンの“洞窟の比喩”を思わせるような述懐をしていました。哲人政治家の面目躍如たるところです。
 また、ゴルバチョフ氏の親友であり、私の友人でもある著名な作家のC・アイトマートフ氏は、クレムリンでの一つのエピソードを紹介してくれました。ある時、たまたまゴルバチョフ大統領(当時)と二人になった時、ある東洋の寓話に寄せて、為政者の選択のむずかしさを問うたというのです。寓話には、一人の流浪の賢者、預言者が登場し、為政者にいくつかの予言をします。そのうちの一つが「自由を得た人間は隷属から脱却するや、過去に対する復讐をあなたに向けるでしょう。群衆を前に、あなたを非難し、嘲笑の声もかまびすしく、あなたと、あなたに近しい人々を愚弄することでしょう。忠実な同志だった多くの者が公然と暴言を吐き、あなたの命令に反抗することでしょう。人生の最期の日まで、あなたをこき下ろし、その名を踏みにじろうとする、周囲の野望から逃れることはできないでしょう。偉大な為政者よ、どちらの運命を選ぶかは、あなたの自由です」(『大いなる魂の詩』下、池田大作、チンギス・アイトマートフ共著、読売新聞社)というものであったというのです。
 その為政者の答えはともかく、この寓話にこめられたアイトマートフ氏の危惧は、その後のゴルバチョフ氏の痛ましい運命を、恐ろしいほどに先取りしています。これを聞いたゴルバチョフ氏は、しばらく黙したあと、苦笑しながら語ったそうです。
 「私はもう選択をしてしまったのです。どんな犠牲を払うことになろうとも、私の運命がどんな結末になろうとも、私はひとたび決めた道から外れることはありません。ただ民主主義を、ただ自由を、そして、恐ろしい過去やあらゆる独裁からの脱却を――私がめざしているのは、ただこれだけです。国民が私をどう評価するかは国民の自由です……。今いる人々の多くが理解しなくとも、私はこの道を行く覚悟です……」(同前)
 ゴルバチョフ氏の、為政者としてのたぐいまれな稟質を、如実に物語るエピソードといってよいでしょう。その為政者としての生涯(まだ、決して終わったわけではありませんが)は、悲劇的といえばいえますが、私は、むしろそれは、ゴルバチョフ氏の勲章ではあっても、決して恥ではないと思います。
 ガルトゥング そしてまた、たとえゴルバチョフ氏自身が復帰しない場合でも、いく人かの第二のゴルバチョフが現れることでしょう。そして今度こそは、かつてイエスを同胞のユダヤ人が磔に処させたように、これらのゴルバチョフを同胞のロシア人自身が犠牲にするようなことが決してないように、またその結果バラバのような人物を大統領に選んでしまうことのないようにと、心から念願したいものです。
 現在、欧米は、筋金入りの政治局員で生涯一度も反体制的な言葉を発したことのないエリツィン氏を、全面的に支持し、彼が欧米に対して異議を唱えることはないものとして信用しています。しかしこれは、欧米にとってもロシアにとっても、じつに悪い徴候なのです。

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