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日本国憲法第九条  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 「日本国憲法」は「平和憲法」ともいわれ、交戦権を否認したきわめてユニークなものです。この「平和憲法」ゆえに戦後日本の繁栄もあったわけですが、一方、最近この「平和憲法」の存立基盤そのものを問い直す動きがあるのも事実です。ここで「日本国憲法」の歴史的意義について考察を加えておきたいと思います。
 ガルトゥング 有名な「日本国憲法」の第九条は、さまざまに解釈されています。この条項は、戦争ばかりでなく戦争の手段をも拒否した、完全に平和主義的なものと解釈することができるでしょう。これは言い換えれば、いかなる戦力も、つまり自衛軍すらも、もたないということです。この条項はまた、第二次世界大戦の勝者によって日本に押しつけられたものであり、したがってやがては適当な時機に放棄すべきものと見ることもできます。この解釈は、「正常化」への道を開くものです。ここでいう「正常化」とは、現在では残念ながら、攻撃能力を備えた軍事機構を保持することを意味します。これら両極端の中間に位置するものとして、さらに別な解釈も存在するでしょう。私の見解も、そうした中間的なものです。
 私はこの平和憲法は、日本にとっては負債ではなく、一つの資産であると考えています。もし私が日本の政治家であったなら、私は次のように理論立てるでしょう。――わが国一国だけがしたのではないにせよ、わが国は先の太平洋戦争において罪悪を犯した。この憲法は、そこに懲罰的な要素も含んでいるとはいえ、わが国に対して第九条の創造的な活用をうながし求めている――と。
 そこで私は、第九条が不保持を宣言している攻撃能力をもった軍事機構と、(拙著『平和への新思考』に述べたような)純粋に防衛的な戦力とを明確に区別したいと思います。さらに私は国連軍に進んで参加する意志のあることを表明したいと思いますが、これは(国連憲章第六章の)平和維持軍という意味に限るものであり、(同第七章の)平和執行軍としてではありません。すでに湾岸戦争で実証されたように、平和執行活動は、おそらく何十万人をも殺戮するような、“あらゆる必要な方途による”実際の戦争の遂行を含みます。こうしたことが国連の果たすべき任務であってはなりませんし、それはまた日本国憲法第九条へのまぎれもない違背です。
 国連憲章第六章の平和維持活動には、すでに長く尊い歴史があります。今後長年にわたって私たちが必要とするであろう数多くの協定や和解条件については、それらの遵守を監視することが重要となってきますが、そうした監視がたんに小火器を用いるだけで、いや理想としては非暴力的な手段と紛争調整の手腕に頼るだけで実行可能であるのなら、そのための努力を日本も分担すべきでしょう。
 結局、平和憲法の歴史的意義は、軍隊の役割を定義し直したという点にあります。たんに自国の利益のためというだけの理由で他国を攻撃するような時代は、もはや過ぎ去りました。また、自国の利益のために他国の問題に介入したり、自分の好みに合わない政権を妨害することが許されるような時代も、すでに終わりを告げました。もはや他の社会階級を攻撃するのに軍事機構を使うといったことは、正当化されえないのです。
 私たちに今必要なのは、各国が純粋に防衛的な戦力を保持し、国際的な共同体で合意された平和維持活動に参加するような世界です。言い換えれば、なすべきことは軍隊の廃止ではなく、その役割を定義し直して、これを平和な諸国の共同体の一部分とすることです。もし私が日本の政治家であったなら、自国がこの非常に意義深い仕事に取り組む最初の国であることを誇りに思うことでしょう。日本の人々は「第九条」を廃止するどころか、むしろ他の諸国に対して、たとえばこれまで他のどんな国にもまして海外で軍事介入をしてきたアメリカ合衆国に対して、このような条項を彼らの憲法にも取り入れるよう勧めるべきなのです。
 池田 日本でも、湾岸戦争のさい、「一国平和主義」か「国際貢献」かをめぐって大いに論議され、それにともなって、最近では、憲法第九条についてもタブー視するのではなく、再検討の俎上にのせていこうという論議が浮上しております。私は、こうした自由な論議の風潮は、歓迎すべきことだと思っております。ただ、戦後永らくつづいてきた「護憲」か「改憲」かという二者択一の通弊はまだまだ強く、あなたの言われるもう一つうえの次元のオールタナティブ(選択)に、なかなか目がいきにくいのです。
 その点、博士が、「国連平和維持活動」との連動のうえから、日本国憲法を捉え直し、位置づけていくべきだとされているのは、たいへん示唆的であります。とくに、国連との連動という視点は、欠かすことのできないものでしょう。
 それと同時に、恒久平和主義の精神を生かしていくためには何より“自己規律の哲学”が必要です。今回の自衛隊のカンボジア派遣をめぐっては、博士もご承知のとおり、アジアの国々からさまざまな危惧の念が寄せられました。これも、かつての拡大してやまなかった日本軍国主義の暴虐が、いまだ記憶に鮮烈に焼き付いているからでしょう。アジアの人々のそうした懸念を払拭するためにも、日本は国際貢献に汗を流すとともに、枠を踏み外さぬ自己規律の範を内外に示していかねばならないと思います。
 博士はただ今、日米関係にふれつつ、アメリカ合衆国憲法のなかにも日本国憲法第九条の考え方を取り入れるべきだと主張されました。私も同感です。日本国憲法が、安全保障の基盤を武力によらず、相互信頼による国際友好に置いていることはよく知られています。とりわけ、これまで国家主権の中核とされてきた交戦権を実定法のなかで否認したことの意義はきわめて大きいと思います。
 米ソ対立状況に終止符が打たれ、新たな世界秩序が模索されている現在、私はあらためて国連憲章そして日本国憲法の初心に帰り、グローバルな不戦共同体制の構築をめざすべきだと考えております。不戦の流れを世界的な潮流にしていくためには、国際世論の支持と盛り上がりが不可欠であり、それには各国の憲法に「交戦権の否認」を導入する運動を民衆レベルで起こしていく必要があります。
 ガルトゥング 私は拙著『90年代日本への提言』(Japan*in*the*World*Community)(日本語版は一九八九年に発刊)の中で、日本国憲法の第九条は、私が容認可能とみなす軍隊の機能、すなわち自国領域内に限っての純粋に防御的な防衛と国連の平和維持活動(平和執行活動ではない)を排除するものではない、という立場をとっております。国際警察、緊急事態の収拾、災害時の援助といった仕事は大いに必要なものです。たしかに(悪い意味での)左翼主義者的な反軍隊感情も多少は存在しますが、世論はおおむねこの種の活動を支持しています。私自身は平和主義者であり、「良心的参戦拒否者」ですが、軍服を着ている人々を差別することには反対です。大事なことは、彼ら軍人が何を着ているかではなく、何をするかなのです。彼らが他国を攻撃したり、労働者階級に向かって発砲したり、正統な政府を転覆するといった場合には、断固これに抵抗しなければなりません。しかし、先に述べた機能を遂行する限りにおいては、その必要はありません。
 軍隊の建設的な機能は、その適用範囲を拡げることができます。今日の世界には軍隊をもたない国が三十近くあり、そのほとんどはきわめて小さな国です。もしもこれら小国の近辺に戦争が起こった場合、たぶん大国が勝手に押しかけて小国の保護者としてふるまうことでしょう。そのような恐れがある時には、何か面倒なことが起こる場合に備えて、そうした小国の招請によって、あらかじめ国連平和維持軍をそれら小国に配置しておいたほうがよいでしょう。こうした軍隊は、多くの国の警察のように、たんに現場に駐留しているだけで抑止的役割を果たすものです。平和維持軍を恒久的に配備することは、言葉による訴えよりも世論に影響を与えるかもしれず、そうなれば軍事力を漸進的に国際管理下に置いたり、軍隊の機能をより穏健化することも、可能になるでしょう。日本は、軍事大国の仲間入りをしようとするのではなく、こうした方向への進展を積極的に推進し、そうすることで日本国憲法第九条を前向きに解釈することを奨励すべきでしょう。

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