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日蓮大聖人・池田大作

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女性――天性の平和主義者  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 先にも話題にしましたが、『人形の家』の著者イプセンは、女性解放を最も先駆的に意識していた人物といわれております。ノルウェーは現在、社会的に女性が男性と対等に活躍している国としてよく知られています。男女平等の意識は社会に深く浸透しており、現実に首相と国会議長、そして閣僚の半数近くが女性ですし、二大野党の党首もそうです。また首相のブルントラント女史は、環境と開発に関する世界委員会の委員長として環境問題に関する優れたリポートをまとめあげたことで有名です。
 とりわけ平和や環境問題など、生命の尊厳を守りぬく戦いにおいて女性の果たすべき役割は、今後ますます重要になってくると思われます。
 ガルトゥング ただ今、『人形の家』を話題にされたことで、あなたは私が好きなもう一つのイプセンの戯曲を取り上げられたことになります。そもそも読者や観客――とくにそのなかの男性――からすれば、イプセンがノーラに家出をさせたのは、とても我慢のならないことと思われるでしょう。ノーラが家を出て行くときドアを閉めますが、これは未来を開いているのです。過去は遮断されたのです。しかし、未来は――観客と夫のヘルメルには見えないようになっていますが――大きく開いているのです。ノーラが自由を得たということには、すでにそこに一つの大きな脅威が含まれているのです。
 もし時代が現代であるならば、ノーラがヘルメルのもとを去ったあと、いかなる行動をとるのか、私たちにははっきりと想像できます。彼女は、平和運動に、環境保護運動に、人間開発の運動に、そして何よりも女性解放運動に参加するでしょう。これらの活動では、彼女は劇中の夫ヘルメルなどいないほうが、うまくやっていけるでしょう。しかし、今日のノーラたちは、イプセンの劇中のノーラがそうしたように夫を捨てることはせず、むしろ夫たちを教育しようと試みます。「家父長制」によって長く従属させられていた女性の力が開放されたことは、平和、よりよい環境、より大きな人間開発を渇望している人類にとって、何よりの恩恵となることです。
 女性は、一九八〇年代の平和運動にきわめて積極的に貢献しました。彼女たちの姿は、いたるところに見られました。一九八一年から一九八五年にかけて、私は、大学の講義は別にして、平和に関する講演・対話を――ほぼ三日に一度の割合で――約五百回行いました。東欧・西欧では十二カ国、そのほかアメリカや日本でも講演しましたが、その聴衆の大多数が女性でした。数々の対話において彼女たちが示した、たとえば核ミサイル兵器の数量云々といった狭い視点を超越して考える能力、そして人間的で全体的な観点に立って考える能力は、かけがえのない財産となったのです。人間不在の、微細・分析的な男性中心の論理だけでは、一九八九年のさまざまな注目すべき出来事は決して起こらなかったでしょう。
 女性は、人間の苦悩や幸福という問題の核心に直截的に迫ります。女性は、さまざまな抽象的思考の落とし穴におちいることなく、また、往々にしてそうした抽象的思考を反映しがちな社会の階層組織にとらわれることもなく、むしろより仏教的なものの考え方、感じ方をします。こういった考え方が、女性の平和行動の特色なのです。男性は、自分たちがあたかも先見の明のある外務大臣か国連事務総長にでもなったかのように、あるいは少なくとも顧問官として世の実力者たちの耳に、その内容が戦争であれ平和であれ、何か助言をささやく立場についたかのようにふるまうことを好みます。女性の場合は、そういった地位に対しては、魅力を感じたり重要視するということがはるかに少ないものです。その典型として、彼女たちは民間外交を確立し、そのなかでみずからが――もちろん多くの男性たちの協力は得るにしても――主要な役割を果たしています。私は、女性たちが往々にして、国防省や外務省のように男性支配の階層組織に入りたがらないことを、少しも不思議なことだとは思いません。女性たちは、そのような「精神の砂漠」で時間を浪費することがないからこそ、奇跡にも似たすばらしい仕事ができるのです。
 これと同様のことが、女性解放運動のより知的な分野である女性学(ウーマンズ・スタディ)についても言えます。女性学は、平和研究にきわめて近い位置にあり、「家父長制」による「構造的暴力」に対して、また男性による「直接的暴力」に対して(あらゆる「直接的暴力」の少なくとも九五パーセントは男性によるものです)、さらには「文化的暴力」に対して、立ち向かっています。この「文化的暴力」とは、男性は(何でも自由にしたいことができるという点で)女性に優れていると考えると同時に、男性は(動物的欲望を抑制する能力が低いという点で)女性に劣っていると考え、そうすることで最初の二種類の暴力(「家父長制」による「構造的暴力」と男性による「直接的暴力」)を正当化するものです。
 私は、「家父長制」こそがすべての人間の悪、社会の悪の根源だと主張するフェミニストの考えには、同意しません。このような考えは、いわば低俗なフェミニズムであり、それは、低俗なマルクス主義がそうであるように、私たちの社会構造に存するある一つの「断層線」(フォールト・ライン)にしか焦点を合わせていないのです。ジェンダー(性別)だけがすべてではありません。たとえば人間と、自然、世代、人種、階級、国籍との関係、国家や超大国(スーパーステイト)との関係等々、別な分断の要因がそれぞれ一役を担っています。これらの要因はすべてが重要であり、どんな単一の共通因子にも還元できるものではありません。道教徒が警告しているように、「還元主義」は危険なのです。「断層線」や陰陽の論理はいたる所に存在しているのです。
 平和研究の理論の場合もそうですが、女性学の理論にあっても、それを大いに必要としている西洋に、東洋的思考法が導入されています。フェミニストや平和主義者も含めて、西洋人がもともと自分たちの手で発見したものと思い込んでいる基本的な思考形態も、実際にはその多くが東洋ではごくありふれたものなのです。アリストテレスやデカルトに、あるいはマニ教にすらみられる厳密な二元論に対する陰陽説や、構造よりも過程を、静止よりも変化を重視するいき方、さらには規範と記述、当為と存在を完璧に区別しない方法などが、そのよい例です。これらの事柄への理解においては、男性よりも女性のほうが速いように思われます。
 私自身の自己開発にはずいぶん時間がかかりましたし、方法論と認識論に関する四冊の著作を書くのにも、これまで悪戦苦闘をよぎなくされました。それらの著作とは、一九六七年の『社会研究の理論と方法』(Theories and Methods of Social Research)(邦題仮訳)から一九八八年の『方法論と発展』(Methodology and Development)(邦題仮訳)にいたるまでのものです。思えば実に長い道のりでしたが、もともと数学者として出発したのですから、矛盾を忌みきらうアリストテレスの論理学にも似たこの間の探究は、じつに楽しいものでした。ともあれ私は、約二十五年をかけて、やっと一つの基本的な洞察にたどりついたことになります。その洞察とは、社会の現実はあまりに複雑で矛盾に満ちており、数学のような一つの矛盾なき思想体系によって適切に表現することはできない、というものです。
 私はつねづね、女性や東洋の人々のほうが、平和について、男性や西洋人よりも繊細な発想をすることに気づいています。しかし、幸いなことは、この後者の二グループ(男性と西洋人)も、まったく救いようのない人たちではないということです。
2  池田 ただ今の『人形の家』の“その後のノーラ”についてのお話にも、作品を通じての博士の現代社会への鋭い洞察がうかがえます。
 かつて中国の魯迅も、「ノーラは家出してからどうなったか」と題して講演を行っています。先にもふれましたが、以前、私の恩師である戸田第二代会長を囲んだ勉強会で、“女性解放”をテーマに、この『人形の家』を教材に選んだことがありました。その席で、恩師が「男は強いばかりが能じゃない。横暴になるのではなく、たまにはこういう本も読みたまえ」と言われていたことを懐かしく思い起こします。
 さて、ご指摘のように、男性は一般に論理的・抽象的な傾向が強く、ともすると“閉鎖系”の思考システムにおちいりがちです。この点、女性は物事の本質を直感的・直截的に把握する能力に優れています。
 博士は、「微細・分析的」になりがちな男性論理の落とし穴を指摘される一方で、「家父長制」を諸悪の根源と断罪する「低俗なフェミニズム」の要素還元的な考え方に対しても懸念を述べられました。一つの思想体系で複雑な社会の現実をとらえようとすることは、それほど多くの危険をともなうわけです。制度や組織の向上もさることながら、まず人間自身の“思考革命”が望まれるゆえんです。
 世界的な天文学者であるイギリスのホイル博士は、氏の愛弟子であるウィックラマシンゲ博士と私との対談集に寄せてくださった序文の中で、近・現代の「還元主義的科学」の限界性を述べるにあたり、「閉じた箱」「開いた箱」という譬えを用いています。キリスト教を背景に発展してきた科学は、文化的・宗教的な制約をうけた「閉じた箱」の範囲内で、ごく単純な問題を解決してきただけであり、地球と宇宙全体のつながりを前提とする「開いた箱」的な考え方に踏み出すことを、未だにためらっている――と。ホイル博士は宇宙・生命の真相に、より虚心に、より端的に迫る「開かれた心」の重要性を訴えられていると思います。
 この譬えを借りれば、男性は、ある特定の論理や概念の「閉じた箱」の中で物事を判断するきらいがあり、これに対して女性は、もともと「開かれた箱」、つまり出来合いの観念に縛られない、全体観に立った自由な見方をする力をもっていると言えましょう。
 抽象的な論理や概念は、あくまでも現実の“部分観”にすぎません。しかし、これらを全体視あるいは実体視し、それに合わせて現実を変えようとする性向が、男性には強く見られます。よく言えば理想主義的と言えるのでしょうが、この男性的な“転倒”が、過去、多くの戦争の原因になってきたことは疑いありません。社会的立場や階層という“仮象”“虚像”に幻惑される傾向も、それと同根で、たしかに女性よりは男性に顕著なようです。これに対して、女性の発想はつねに現実的で、どこまでも生活の視点から物事を見ていきますし、男性にはないこまやかな心で、時代や社会をとらえていくことができます。
 仏法では、「修羅は身長八万四千由旬・四大海の水も膝にすぎず」と説いています。修羅とは、もともと戦闘を好む鬼神の名ですが、転じて、勝他の念に執着し、他を軽んじ自分のみを大事にするエゴの状態を言います。この修羅の心が傲り高ぶるさまは、八万四千由旬(長大さを表す古代インドの距離の単位)にもおよび、大海の水も膝までしかとどかないほどであると言うのです。あらゆるものを自分の支配下におき、意のままにしようとする修羅の衝動は、まさに男性論理そのものです。
 これら男性社会のもつ観念性や閉鎖性、権力性を克服するためには、たしかな現実感覚に根ざした「等身大」の平和思想、平和運動がぜひとも必要となります。「等身大」ということは、抽象的な理論よりも、人間の感性に忠実であり、キリスト教の“神”に結びついた超越的な視点はつねに排されています。こうした仏教の考え方は人間が基準とされていて、おっしゃるとおり、東洋的発想の特徴でもあります。
 また、身近な生活に根をおろし、生命を慈しみ育む女性の発想が「等身大」となっていくことも、当然の帰結でしょう。平和に果たす女性の役割は、今後ますます重みと輝きを増していくことと思います。

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