Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

家庭――愛の織物  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 ところで、博士が育たれた家庭環境は、父上が医師、母上が看護婦ということで、病に苦しむ人々にわが身をいとわず尽くしていこうという家庭的雰囲気があったと聞いております。
 家庭は、人類最古の共同体であり、人間が生活を営むうえでの最も基本的な場です。にもかかわらず、その家庭の基盤が崩れつつあることが指摘されて久しい。国家や社会体制の崩壊を脳卒中や心臓発作にたとえれば、家庭の崩壊は表面的にはそれほど目立たなくても、じわじわと身体をむしばんでいく癌細胞にたとえることができましょう。
 「良き木は良き苗でなければならない」とは自明の理ですが、良き苗には良き土壌が必要であり、その土壌こそうるわしい和やかな家庭だといってよいと思います。
 広い意味でいえば、平和の問題も家庭の問題を離れてはありえません。家庭の荒廃は人心の荒廃に結びつき、それは社会の荒廃へと直結するからです。ガルトゥング家庭が――社会科学者の用語を借りれば「定位家族」も「生殖家族」も――重要であるということについての、あなたの評価に同感です。
 基本的には、結婚をした夫婦間の絆が強い分だけ、家族の結びつきも強くなります。もし配偶者たちが、それぞれ独自に成長していくだけでなく、同時に、別々であればとうてい到達できないはずの高みにまで力を合わせて成長していくという道を見いだすならば、その効果は家族全体にいきわたることでしょう。私の両親は、この点、成功を収めておりました。
 今日、家庭はさまざまな面から脅威にさらされています。そうした脅威の一つが、夫婦間の貞節が失われていることです。エイズの恐ろしさも、たしかに不義を思いとどまらすのに役立ちはするでしょう。しかし、これでは、この問題への消極的なアプローチでしかありません。しかも、一点の非もなく貞節であるというだけでは、それは結婚が成功するための十分条件ではありませんし、おそらくその必要条件でもないでしょう。
 結局、大事なことは夫婦の双方が、ともに助け合いながらともに成長するために、互いに何の隠し立てもないと言えるところまで、その生活のなかに、そして心の配り方に、くまなく愛をいきわたらせ、そうすることで自分たちの結婚を成功させるのだと固く決意することです。このためには一切隠し立てのない率直さ、意志の疎通と、そして対話が必要とされます。こうした率直さを達成するのはたいへんな仕事であり、そこからよくわかることは、愛はたんなる約束事でもなければ当然の権利でもないということです。愛とは、それが結実するためには、何度も繰り返し生みだされるべきものです。そしてまさにこれこそは、私たちがみな結婚生活のなかで遭遇する幾多の問題を解決する、唯一の方法なのです。
 いうまでもなく、結婚の一つの重要な結実は子どもたちです。子どもたちは、好奇心と思いやりにみちた人間に育てあげるべきです。彼らの人生の基本的な方向づけは、さまざまな形でなされる思想的教化(インドクトリネーション)によってではなく、自己の内面からの戦いによって、自然に現れたものでなければなりません。民族主義的な文化は、思想的教化の一つの形態となります。子どもたちは、文化には一つに限らず数多くの文化があることを学び、いくつもの文化に親しむべきなのです。
 親が子に伝えるべき、最も簡単でしかも最高のメッセージ――それが「愛」です。私たちは、子どもたちの長所を見つけ、それを伸ばしてあげなければなりません。誤りは指摘しても、そのことについていつまでもくどくどと言うべきではありません。そして、罰するよりも褒めてあげるべきです。私たちが子どもたちを愛するのは、親として彼らから愛されるためではなく、彼らが愛すべき存在であることを感じさせてあげるためです。また彼ら自身が親になった時に、彼らの子どもたちを愛することができるようにしてあげるためです。このようにして、私たちは、まず愛の糸をつくりだし、やがてその糸が織られて、歴史をつなぐ愛の織物にすることができます。おそらくこれこそが、今日の結婚生活のかげに隠されている真実、すなわち――通常、男性によって犯されている――恐ろしい残酷行為を和らげる方法なのです。おそらくは、家庭生活全般、なかんずく結婚生活は、国際社会という、より大きな環境のなかで平和に貢献するうえで、私たちが通らなければならない試練なのではないでしょうか。
 池田 私もそう思います。仏典には「冷酷な悪人すら、なお妻子を慈愛するものである。これは菩薩の境涯の一分である」と説かれています。「家族愛」は、最も身近であるゆえに、すべての人に共通の心情です。それは「同胞愛」や「人類愛」を培っていく基礎となるものでしょう。博士の言われた「愛の織物」を、タテに世代から世代へ、ヨコに家庭から地域・社会へ、国や世界へと広げていくことが、平和創造の根本の原理であると思います。
 子どもとのふれあいについては、私も多忙な毎日のなかで、自分なりに大切にしてきたつもりです。とくに、幼い時からわが子に「対等の人格」を認め、「一人の人間」として接することを心がけてきました。たとえば、彼らを呼び捨てにせず、なるべく「クン」づけで呼ぶようにしてきました。親の子である以前に、一個の人間としての自覚と主体性をもって生きてほしいという願いをこめてのことです。子どもの魂の底には、一人の「大人」がひそんでいる。それが、いつか「大人」の声と調子で話しかけられることを待っているのだ――と言った人がいますが、まことにそのとおりであると思います。
 それと同時に、子どもたちと「同じ目線」でものを見るということも、非常に大切です。ある人が言っておりました。たとえばデパートなどで、子どもが“おねだり”をして床に座り込んで泣きだした場合など、いくら上からにらみつけて叱っても、絶対に泣きやみません。こういう時、最良の方法は、「親も一緒に座り込んでしまう」ことです。すると子どもは、きょとんとして泣きやんでしまう、というのです。それからじゅんじゅんと諭していけば、意外に素直に言うことを聞くとのことでした。
 また以前、こんな話を聞いたことがあります。ある学校の校長先生が、教室から窓をのぞくと富士山が見えた。そこで児童たちに「皆さんは、富士山が見える教室で勉強できて幸せですね」と話しかけた。ところが子どもたちからは「富士山なんて見えないよ!」と、たちまちブーイングの声があがった。それというのも、この教室の窓は下半分が“すりガラス”になっていて、大人の高さでしか外が見えなかったのです。大人と子どもが見ている“世界”は、同じようでいても、じつは違っている――。親と子の関係にとって、まことに示唆に富む話であると思いました。
 家庭は人間にとって、すべての社会的な行動の“起点”であり“原点”です。「自己の家庭で平和を見いだす者が、一番幸福な人間である」とはゲーテの言葉だったと思います。また中国の古典『墨経』でも、「宇(空間)とは東、西、家、南、北なり」と、四方の真ん中に「家」があることを強調しています。「心の荒廃」が深刻な問題となっている今日、現代人は、まず足もとのわが家から、じっくり見つめ直すことが肝要だと思います。

1
1