Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

さまざまな学習のあり方  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 博士は青年の教育にたいへん力を入れておられます。一九九二年の春、三十五人の学生を連れて来日されたのも、博士が進めておられる平和学の「国際移動大学」の一環としてでした。
 創価大学の創立者として、私もつね日ごろ、教育こそ二十一世紀を創る最重要事と銘記しております。グローバルな教育実践を通して、博士は、青少年教育の最大のポイントはどこにあると考えていますか。
 ガルトゥング 教育は、何よりもまず「自己教育」であるべきです。この「自己教育」に次いで重要なのは、成長のレベルが同程度の友人・同僚間の意見交換、体験交流といった意味での「共同教育」です。これは、言うなれば「自己教育」の延長であり、また、相互の個人教育を含む共同討議とも言えるでしょう。そして、決定的に必要とまではいえないまでも、じつに重要なのが「他者教育」です。これは教師と学童、教授と学生、先生と生徒といった関係での教育です。私は、この種の教育は、教育総体のせいぜい一〇パーセント程度しか占めるものではないとみています。しかし、この一〇パーセントは重要です。
 英語の「教育する」(educate)という言葉の語源はラテン語のeducareに由来しますが、そこには語根duxつまり「指導者」の意味が含まれており、転じてドイツ語でいえば「総統」(der Fuhrer)にあたるムッソリーニの称号、イタリア語のil Duce(イル・ドゥーチェ)も、ここから出ています。人々のなかには「教育する」ことをあたかも子どもたちを、彼らの意志に反してでも大人になるよう導くことだ、と考える人もいます。そうした解釈に従えば、教師は自分の仕事を、学生たちになんらかの結果をもたらすよう努力することだと思うようになります。このような教育法も広く実施されており、それもある程度までは不可欠ですが、しかし、これについては私はなお疑念をいだかざるをえません。この教育法では、教育者は、他の人々に結果をもたらす原因そのものに、自分がなろうとするわけです。私から見れば、これはあまりに不釣り合いな関係であり、あまりに力を必要とするものであり、ほとんど暴力的ともいえるものです。
 私自身の個人的体験を申し上げれば、私は、小学校から大学にかけては、教師の話を一応は注意深く聞き、それから自分なりの問題点を独自にまとめるようにしていました。次に私は、時には独力で、時には他の学生たちとのいつ果てるともない討論を通して、そうした疑問の解答を丹念に探し求めました。四、五年間というもの、私は毎日、とても親しい友人とともに学校からの帰途の二時間ほどの間、自分たちがいちばん心に懸けている話題を論じ合ったものです。大学に行ってからも、私の時間の多くを占めたのは、これと同様の話し合いでした。私は今なおこの訓練をつづけており、これからもやめることはないでしょう。
 「他者教育」「共同教育」「自己教育」の三種類の教育にはそれぞれほとんど無限の可能性があるとはいえ、どんな人も互いに相手を豊かにする可能性を見いだす努力をおこたると(私自身も心がけてはおりますが)、年をとるにつれて、対話仲間の範囲はおのずと狭まってしまうものです。対話の相手が、ついには自分と同じ専門分野の人たちだけになってしまう危険性は、いつもあるのです。
 「教育学」(pedagogy)という言葉は――語根pedを含み、これはギリシャ語のpaisすなわち「子ども」に由来しますが――「教師と生徒の関係」という意味を含んでいます。そこでは教師は、その度合いに高低はあるにせよ、学生を熱中させます。私は、週のうちとびとびの何日かの、決められた時間に特定の科目の講義をするという、通常の大学教育のあり方――これはまぎれもなく大学当局にとっては都合がいいものでしょうが――には賛成できません。教師が学生たちをなんとか興味がわく段階、もしくは熱中しだすところまで高めたころには、授業時間は終わりになるのです。その同じテーマについての学習は、早くても二、三日後まで、もしかしたら次週までは再開されないでしょう。普通、授業時間が終わるころには、学生たちの心はすでに次の講座へと移っているものです。むしろ学生にとっても教師にとっても、一つのテーマについて、少なくとも一週間は集中して取り組むほうが、はるかにやりやすい方法なのです。なぜなら、そうすることで学生たちは、現代の集中語学講座で体験するのに似た形で、そのテーマに没頭することができるからです。当然ながら、そうした語学講座を、たんに学校当局の都合という理由だけで廃止するようなことには、だれも賛成しないでしょう。これは他の分野の集中授業にもあてはまることです。
 教室での授業活動が活気をおび、教育の熱気が大いに高まったときに初めて、学生たちは強い創造的刺激を受け、独力で飛び立って、みずから「自己教育」や「共同教育」を開始し、それによって教師と学生という関係の教育を補完するようになるものです。私はさまざまな状況のなかで、とくにユーゴスラビア(今日のクロアチア)の「国際大学間大学」の学長の職にあったとき、この種の諸条件を創出するように努めました。まる一日かけてのセミナーも有用かもしれません。大事なことは、直接体験、コミュニケーション、対話、集中化等をできるだけ集約的に組み合わせることです。(この話題に関しては、近く刊行予定の拙著『平和と発展のための教育』〈Education for Peace and Development〉〈邦題仮訳〉の中で、より詳細に探究しようと思っております)
 あなたは平和学の「国際移動大学」にふれてくださいましたが、これも私の提唱する学習環境を実施した、一つの端的な例なのです。このプログラムでは、十カ国三十五人の学生が八カ月間一緒に生活し、あらゆる行動を共にしたのですが、私たちが訪問した二十カ国の、二百八十八人の優秀な講師の奉仕を受けました。訪問先によっては滞在が長くなることもあり、たとえば中国と日本とハワイでは、いずれもまる一カ月間滞在しました。じつにすばらしい体験でしたが、このセミナーに参加するには人間としての成熟さが要求されたため、何人かの学生にとっては、これは過重なことでした。そのうえ、学生たちがプログラムの途中で成熟していくにはセミナーの集中度があまりに強く、そのため彼らは事前にそうした成熟度に達していなければならなかったのです。つまり、教育の温度が高すぎて、やけどをした学生もいたわけです。
 さて、永遠の弁証法としてのこれら「他者教育」「自己教育」、そして「共同教育」のすべてを包摂するのが、世の中を直接体験することの大切さです。クラスの中で、どの学生がどこまで実社会を体験しているかは、すぐにわかるものです。こうした直接体験のためには、旅行が――不可欠というわけではありませんが――役に立つものです。とくに当世若者流の旅行、つまりハイキング、働きながらの旅行、キャンプ、探検、夏期講習、ホームステイなどが役に立ちます。たんにA地とB地間を往復するだけの観光旅行では不十分です。いえ、そこには欠陥すらあり、精神を向上させ豊かにするよりも、むしろゆがめることがままあるものです。
 「内なる対話」――もしくは黙想(meditation)――もまた、非常に効果的な「自己教育」の方法であり、それにはいくつもの形態が考えられます。仏陀のように壁の前に座って黙想することもできるでしょう。しかし歩行中でも、自転車に乗っているときでも、あるいは陸上・海上の旅行中でも、同じように黙想することができます。列車や船での旅行中に次々と現れては変化し、心象から消え去る海や陸や町の風景は、さまざまな思考や発想のための暗喩(メタファー)を吹き込み、与えてくれます。ただ飛行機での旅行からは、私はそうした感興を得ることがありません。
 以上を要約すれば、教育においては、黙想(meditation)や「内なる対話」のほうが、教師・教官の仲介(mediation)よりも大きな役割を演じてしかるべきなのです。この二つの英単語のつづりの違いはわずかですが、その意味にはじつに大きな相違があるわけです。
2  池田 仏典に「人にものを教えるということは、車が重いのを、油を塗って回りやすくし、船を水に浮かべて進みやすくするようなものである」とあります。教育の根本は、このように、人間にもともとある力、可能性を“引き出す”ことにあるのですし、これはまた、子どもを、あらゆる可能性を秘めた“一個の人格”として尊重することが前提です。
 「子どもの発見」ということを、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが言っています。
 すなわち、ヨーロッパ中世には、大人と区別された子どもというものは意識されていなかった。赤ん坊の段階を終えた小さい人々は、すぐに大人の役割の各分野へ組み込まれた。子どもを説明する特別の用語は、十四世紀以前には見いだせないし、子ども用の服、玩具、本などが十六世紀以前に見られないのは、そのためである。つまり、フランスなどの西欧社会では、子ども時代という新しい概念が誕生するのは、ほぼ十七世紀以降のことである――と。
 日本においても、近代国家が成立する以前には、“子やらい”と呼ばれる教育の習慣がありました。“子やらい”というのは、子どもを前にやり、後から押していくという意味で、子どもを未熟な者と見たてて、前から引っぱっていこうとする近代教育のあり方とは、ちょうど逆をいくものです。ヨーロッパと同じような現象がみられるということは、近代文明の性格を考え、それを逆照射していくうえで、たいへん示唆的です。そこには明らかに、子どもを「未人間」「半人間」とみなす、知識偏重教育の問題が横たわっているからです。
 大人と子ども、子どもと家族、これらの関係は、非常にゆるやかに変化しています。ゆえに教育においても、長期的で確実な改善の展望が不可欠です。小手先や思いつきの方法では、結局、子どもたちが翻弄され、行き詰まってしまうでしょう。その意味で、博士が進めておられる“体験重視の教育”の意義は大きいと思います。
 じつは、博士のお考えとも共通すると思うのですが、著名な教育学者であった牧口常三郎初代会長が、「半日学校制度」というものを提唱しています。
 つまり、児童・生徒が半日を学校生活に、残りの半日を生産的な実業生活、あるいは専門的な学習や、個性に応じた教育にあてる制度です。学習を生活の準備とするのではなく、生活しながら学習する、それを生涯を通じ、実行していく――これが主眼です。また校舎や教師の労力を、二部制、三部制に編成すれば、より多くの生徒を収容でき、受験地獄の一掃にもつながります。さらに、校舎の費用の負担を軽減することもできる、としたのです。
 授業の効率化については、こう見ています――教授法の改良によって「試験のためのにわか暗記で、後では大部分忘却してもよいような知識は、思い切って低減することができる」と。
 また、博士が述べられた「内なる対話」の重要性については、もちろん私も同感です。しかし、やはり通常の教育機関のもつ役割が重要なことは、いうまでもありません。
 平和は当然、今までも重要な問題でしたし、これからはより以上、「崩れざる平和」の構築への現実的、具体的な行動が求められています。何を、どのように、いつ、なすべきか――最も「効果」を上げるためにも専門家の育成は重要です。そして、そのための自己訓練、鍛錬を行う場は、やはり大学など高等教育の機関ということになるでしょう。
 ガルトゥング 専門家には「高い精神性」と「生命の尊厳と人間の可能性への確信」が求められます。そうした資質や方向性を生みだす重要な源泉が仏教であり、またガンジー主義などがもつソフト・パワーの側面です。そこで、平和の専門家の育成を促進するうえで、創価大学はどんな役割を果たし得るとお考えでしょうか。
 池田 平和の構築には、「倫理的側面」と「政策決定の合理性」という二つの側面があります。このうち、政策決定には高度な専門的知識が要求されます。ゆえに博士のご指摘のとおり、“平和への思想を民衆と共有し”なおかつ“合理的な政策決定のための情報提供をなし得る”専門家を養成する必要があります。その点で、創価大学には多くの可能性があると信じますし、創立者として真剣に支援したいと考えています。
 創価大学を開学するさい、建学の精神の一つとして、「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」を掲げました。建学の理念の柱として「人間教育」「文化」「平和」を据えたのです。そのなかでも「人間教育」が根本であることはいうまでもありません。こうした考えのうえから、創価大学において、平和構築のための人材、専門家を養成したいというのが私の強い願望でした。
 ガルトゥング その希望を、私も分かち合いたいと思います。現在、平和学は、これまでの知識構築という焦点(平和研究)から技術面の焦点(平和訓練)へと進展しつつあります。この分野では、創価大学は指導的な役割を演じることができるでしょう。

1
1