Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

青年時代と読書、芸術  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 博士はノルウェーの社会科学者としては、その著作や講演から引用されることの最も多い学者と聞きました。またノルウェーで平和研究を創設し、それを世界に広げた先駆者であり、平和研究の膨大な論文を発表しておられます。博士が青少年時代からどんな読書体験を経てこられたのかは、たいへん興味あるところです。
 ガルトゥング 二人の著作家の作品をあげたいと思います。一人はノルウェーの女流作家ニニ・ロール・アンケルです。彼女の『女と黒歌鳥』(Kuinnen*og*den*svarte*fuglen〈The*Woman*and*the*Blackbird〉)(邦題仮訳)という作品は、もちろん平和研究者や「良心的参戦拒否者」になるうえで、必読とまではいかないにせよ、その役には立つものです。彼女の作品の主要なテーマは、第一次世界大戦の狂気です。彼女が描くそこでの犠牲者たちは死者ではなく、ほとんど瀕死の重傷を負いながら死という逃げ道に恵まれることもなく、今日でいう植物人間として生き長らえている人たちのことです。彼らは、無知で想像力のない、まったく無慈悲な、いわゆる政治家たちの犠牲となって、殺し合いのために戦地に送り込まれたのです。この著者に最も特有なテーマは、重傷の息子をよみがえらせようとする一女性の苦闘と、彼女の政治意識への目覚めです。
 二人の著作家のうちのもう一人は、ヘンリック・イプセンです。私は、当然ながら、自国の文化から創造的な刺激と活力を得ていますが、イプセンを抜きにしたノルウェー人とはいったいどのようなものか、私には想像すらできません。まさにイプセンこそ、ノルウェーが世界に贈った最上の贈り物なのです。
 イプセンの『人民の敵』では、ストックマンという名の医師が――これは民主主義にあってはだれもが時折やらねばならないことですが――勇敢にも政治に対してだけでなく、結束の固い市民の多数派に対抗して立ち上がります。彼は、市民たちの虚偽をあばき、その無知と強欲をあからさまに非難します。すでにイプセンはこの戯曲の中で、彼の死から一世紀後にやってきて現代の最重要問題の一つとなった環境危機について、実際に描いています。彼には悲惨や戦争、社会の崩壊や疎外といった他の諸問題も、容易に描き出すことができたでしょう。
 私の愛する父と同じく――父は私がまだ子どものころに診断・予後・療法という三者の相互関係について教えてくれました――『人民の敵』のストックマンは医師であり、彼が立ち向かっている相手は、従順な患者どころか、彼のどんな忠告も容易に聞こうとしない人たちです。
 私はまだ十四歳か十五歳のころでしたが、このドクトル・ストックマンには非常に感動しました。この点、イプセンの作品に登場するあと二人の主要人物も同様です。一人はいつも自己満足をしているペール・ギュントであり、もう一人は人々にあまりに多くを要求しすぎるブランです。ノルウェー人にはこれら二つのタイプの人間がたくさんいますが、それはどの国民も同じなのでしょう。私もこの三人――ストックマン、ペール・ギュント、ブラン――の性格を、それぞれいくぶんかずつ兼ね備えているようです。
 池田 貴国にとってイプセンは、まさに「精神の宝」です。「民衆文化の金字塔」だと思います。イプセンといえば、よく戸田先生を囲んでの青年たちの読書会で、『人形の家』などの作品を読み合ったものです。
 ある書簡の中で、イプセンは、こうつづっています。「いままでわれわれは、前世紀の革命の食卓からこぼれ落ちたパン屑で生きてきたにすぎませんし、それももう充分にしゃぶりつくしてしまっていると思います。われわれの用いる言葉は新しい含蓄を、新しい注釈を必要としています。自由、平等、博愛は、最早あのいまわしいギロチン時代のようなものと同じものではありません。政治屋どもにわからないのはこれなんで。だから私は、あいつらを憎むんです。あいつらが望んでいるのは、単に政治世界での特殊な革命、外面的革命などです。しかし、そんなものは取るに足りません。本当に必要なのは人間精神の革命です」(『イプセンの手紙』原千代海訳、未来社)
 外面的な革命ではない。人間精神の革命だ。時代に新しい栄養と刺激を与えたい――この思いが、イプセンの作品には脈打っていました。しかし、作品の出版を業者に拒否され、主宰した風刺雑誌も廃刊に追い込まれ、劇場への挑戦も挫折して、長い間、不遇の時代がつづきました。そのなかから、やっと作品が認められても、必ずといっていいほど同じくらいの不評の声がぶつけられ、そのたびにイプセンは、すぐさま次の作品を練り、反論し、戦いました。彼は、二十五編の戯曲を発表しましたが、一度として同じ技法を繰り返し使ったことはないと言われています。
 「大発見をしたんだよ」――『人民の敵』のラストシーン、ドクトル・ストックマンは家族に、こう言います。「それはね、いいかい、世界でいちばん強いのは、たった一人で立っている人間だ、っていうことさ」(「人民の敵」原千代海訳、『原典によるイプセン戯曲全集』4所収、未来社)
 温泉町の汚染除去のための訴えが、町のあらゆる無理解な人々から排除され、むしろその人々の心こそが“汚染”されていることに気づいたドクトル・ストックマン。最後の台詞は、民衆の精神革新へ情熱を燃やすイプセンの、信念そのものであったと思えてなりません。
 私も、恩師の生涯を描いた小説『人間革命』の中で、出獄後、焼け野原から、一人、創価学会の再建に立ち上がった恩師の姿を、シラーの言葉を借りて記しました。「一人立てる時に強き者は、真正の勇者なり」と。
 ガルトゥング ところで池田会長は、文学や芸術は私たち人間をたがいに結びつける力をもつとお考えでしょうか。また芸術は、私たちに内在する「仏性」を強化するとお考えでしょうか。
 池田 私は、かねてから芸術は人と人の心を結ぶ、また、人類の未来に輝ける展望を開く「根源的な力」をもつと考えてきました。一九八八年に開催された第十回「世界詩人会議」のさい、私は「詩――人類の展望」と題して論文を寄稿しました。その要旨も、「詩は人間と社会と宇宙を結ぶ心である」というものでした。また、一九八九年にフランス学士院で行った「東西における芸術と精神性」と題する講演でも、芸術のもつ「結合の力」について述べました。
 大宇宙に脈打つ「法」、社会に脈動する「法」、人間生命に内在する「法」――一切の現象は転変してやみません。転変しながら、しかも厳たる「法」にのっとって、ある時は融合し、ある時は遠ざかり、協和音・不協和音を奏でつつ、共鳴し、反響し、大いなる「生命のドラマ」を展開していきます。芸術とは、まさにその「生命のドラマ」へと人間をいざない、帰入させていく力であると考えます。それはまた、宇宙生命に充満する無限の歓喜と慈悲と知恵への扉を開き、創造力の根源に迫りゆく人間の崇高な行為の一つと言えましょう。
 人間は、優れた芸術によって、人類と自然と宇宙が一体であることを感じられるようになります。人類が築き上げ創出してきた地球上のあらゆる芸術――それは、その時代、その民族や個人を表現の場としながら、それぞれの民族や個人が宇宙生命と出合い、触発され、うたいあげた魂の歌、生命の軌跡の結晶ではないでしょうか。私たちが詩歌や絵画、音楽など、優れた芸術作品にふれた時のあの充足感、歓び。魂の奥底から込み上げてくるような感動。それはまさしく、自己の境涯が宇宙生命のリズムにうながされ、拡大しつつあることの確かな実感であるとも言えるでしょう。
 そうした意味から、私の恩師もつねに「世界的な文学を読め。偉大な芸術にふれよ」と語っていました。亡くなる寸前まで、私に「きょうは何の本を読んだか」と、毎日、厳しくただしたものです。
 さて、芸術が、ある程度、宇宙生命に内在する力を発現させたものだとすれば、芸術作品にふれて歓喜するということは、それを通じて宇宙生命にふれるということでもあります。芸術は「宇宙生命に出合う扉」ともなりうるわけです。このように、自己と他者が、芸術を通じて宇宙の根源のリズムに共感し、感動を共有していくところに、普遍的な人類の心の連帯が可能になると信じます。
 美に出合うとき、人間は人間に立ち戻り、生命に立ち戻ります。立ち戻った人間という平等の次元では、一切のカベはなくなります。美しいものを前に、ともに心を感動で震わせるときほど、人間同士が急速に仲良くなることも少なくないものです。人間の連帯と宇宙生命への接近――芸術によって導かれるこの二つの輪が互いに連関しながら、非暴力、慈悲、信頼、連帯心、人類意識、世界意識などの美しい心、広い心を醸成していくと考えます。その意味で、文化、芸術は、平和の武器なのです。

1
1