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日蓮大聖人・池田大作

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偉大な師に学ぶ  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 学問上また一個の「人間」としてでも結構ですが、師と仰ぐ方はおられますか。思想的にいちばん影響を受けた人物でも結構です。
 ガルトゥング 若い学生のころは、ユダヤ系オランダ人の哲学者バルッフ・スピノザのヒューマニズム――そして人間への信頼――にたいそう心をひかれました。
 彼の思想は、倫理と認識との橋渡しをするものです。たとえば、彼は無理解は悪を生みだし、理解は善をもたらすと述べています。私自身の平和研究の信念も、平和への道は他にいくつかあるにせよ、事実認識にもとづく知的な道もあるはずだ、という考えに由来しているのかもしれません。どのような行動が平和への道を見いだすうえで手助けとなるのかを知ることは有用であり、このため紛争に代わるべき非暴力的な代替策をできるだけ数多く提示することが、平和研究の主要な仕事なのです。私たちはつねに建設的であらねばならず、絶えず提案をしていかねばなりません。なぜなら、私たちが日常接する人々の心情にも思考にも、よりよい世界への思想を植えつづけていくならば、やがてそれが現実のものとなるからです。
 いうまでもなく私は、モハンダース・ガンジーを、多大な影響力をもつ人物――古今を通じて最大の偉人の一人――とみています。彼の人柄で最も感銘を深くする二つの点は、その楽観主義と想像力です。非暴力の原理を口で説くことは簡単ですが、非暴力を心から深く信奉し、そこからその実現のための実践可能な方法を考えだし、さらにそれを軌道にのせるというのは、はるかに困難なことです。
 ガンジーにあって同じくらい印象的なのが、そのアジア的な――彼の場合はヒンドゥー教的・仏教的な――方法であり、彼はそれによって西洋の数多くの知識人や政治家がその僕となっている、あの誤った二分法をまぬかれています。その二分法の例を一つだけあげてみましょう。それは左派と右派についてです。
 右派の信条の人々は、階級制度、抑止力、警察、軍隊などの防壁を構築して、直接的暴力に対抗することがどうしても必要だと考えます。これに対して左派の見解に立つ人々は、革命にともなう直接的暴力を最小限――いやむしろ最大限――許容することによって、そうした構造的暴力を打倒することが必要だと主張します。ガンジーは直接的暴力にも構造的暴力にも反対し、その両方をなくすためにサッティヤグラハ(真理から生まれる力)とサルボーダヤ(万人の向上)というすばらしい理念によって戦いました。言い換えれば、ガンジーは植民地主義、カースト制度、人種主義といった構造的暴力に対して非暴力的に戦うことで、左派・右派いずれの落とし穴にもおちいることがなかったのです。
 私は、スピノザとガンジーを一度に紹介してくれたオスロ大学の哲学の教師アルネ・ナエス教授に、終生変わらぬ感謝をしています(当時、私が二十三歳で、ナエス教授は三十八歳でした)。ナエス教授はその当時も、また現在も、スピノザとガンジーについての世界的に著名な専門家です。いつの時代にあっても、偉大な人物から学ぶのがいちばんよいのです。たとえば、釈尊の偉業を伝えるほんの小さな仏教書であっても、それは社会科学のジャーナル誌のありとあらゆる記事を読むよりも大きなインスピレーションを与えてくれます。ただし、こういったからといって、この二種類の文献が互いに相容れないということでは、もちろんありません。
 もう一人、私がその著作から大きな影響を受けた社会科学者といえば、ピティリム・ソローキンがいます。彼はロシア生まれの社会科学者で、実際にはロシア・コミ人でしたが、革命後にロシアを去り、アメリカに移住して教鞭をとりました。私は彼の『社会的文化的動学』(Social and Cultural Dynamics)(邦題仮訳)を何回読んでも、その都度何かしら新しいものを得るのです。彼の天分は同時代の人々にはあまりに偉大すぎて、その真価が十分に評価されるには、おそらく次の世紀まで待たねばならないでしょう。彼には広範囲にわたる知識を統合する恐るべき能力があり、彼はそれらの統合された知識を時の流れに照射させるなかから、文明史のなかにリズム(循環)を発見しました。ペトログラードで(一九一七年の三月革命後の臨時政府の指導者)アレクサンドル・ケレンスキーと政治活動を共にしていたころから、後にハーバード大学で教鞭をとるにいたるまで、ソローキンはまぎれもない西洋文明の産物でしたが、やがて彼はその西洋文明に対して警告を掲げたのです。
 私が巨視的な史観と諸文明の分析に対していだいている情熱は、疑いもなくソローキンに負うところが多いのです。彼の晩年、私は彼に会う光栄に浴しましたが、彼は、自分が当然認められるべきであるのに認められなかったことに、あまりにひどく傷ついていました。西洋は、彼の警告を受け入れなかったのです。それというのも、とりわけ一九三〇年代の大恐慌の底流にひそむ重大な破局と、物質中心の文化――つまり彼の言う「唯物的」文化――がたどりつつあった愚かしい極端を、彼が予見していたからです。
 池田 私が、恩師である第二代会長戸田城聖先生と初めて出会ったのは、恩師四十七歳、私が十九歳の時でした。小学校時代の友人の家で、「生命の哲学」についての会があるからと誘われたのです。
 会場は、中年男性や主婦、青年たちであふれていました。皆、身なりは貧しかったけれど、不思議な活気がありました。そのなかに、度の強い眼鏡をかけ、額のすっきりと秀でた人が、屈託なく語っている――それが、戸田先生でした。
 聞いているうちに、仏法の話をされているのだなとわかりました。しかし、いわゆるお説教や、伝統的な哲学の話ではなく、身近な例を通して、日常生活や現代政治についても鋭い洞察が加えられていくのです。口調は、ぶっきら棒な感じでしたが、そこに、何ともいえないあたたかさがにじみ出ていました。
 話が終わって、私が友人の紹介を受けると、先生は、人なつっこい笑みを浮かべながら、私に話しかけられました。その時、私は、日ごろからいだいていた疑問を、先生にぶつけました。「正しい人生とは」「真の愛国者とは」「天皇制について」「仏法の真髄とは」と。
 その解答の、明快だったこと――何のけれん味も紆余曲折もなく、ずばり物事の本質に迫る、誠実な答えが返ってきました。求めていた真理が、じつに生き生きと、澱みなく示されたのです。私は、心から感動し、満足しました。この、戸田城聖という稀有の人格との出会いから、私の人生は、大きく回転し始めたのです。
 やがて、恩師の経営する出版社に勤めることになりました。ところが、折からの不況です。事業は重大な危機に瀕し、給料も遅れ、好転の兆しは見えませんでした。社員は一人去り、二人去りしました。しかし私は、どこまでも戸田先生についていこうと覚悟を決めました。そして、つづけていた学業も、学会の再建、事業の再建のために、やむなく放棄したのです。
 先生は言いました。「ぼくが全部教えてやるからな」。それから数年間、先生のご自宅で、また朝早い会社で、個人教授が始まったのです。法律、政治、経済、歴史、天文、漢文、そして仏法と現代思想など、あらゆることを教わりました。連日の債権者との交渉に疲労が重なり、寝坊して、遅れて駆けつけた時も、先生は待っていてくださいました。
 「偉大な人物から学ぶのがいちばんよい」と、博士がおっしゃるように、私にとっては、恩師の振る舞いのすべてが、命がけの薫陶であったと、今も思いは尽きません。私が、仏法を基調とした世界平和という崇高な使命に生き、道なき道を進んでいけるのは、今も、戸田先生が私の脳裏から離れることがないためです。
 ソローキンの著作をめぐるお話には、感動しました。「君よ、一書の人たれ」とは、青春時代に出合った大好きな言葉です。私も若き日に、モンテーニュの『随想録(エセー)』を座右の一書としていた思い出があります。
 終戦後、既成の価値観が崩壊するなかで、多くの青年が、信ずるに足るもののない現実を憂え、焦燥と不安にかられていました。そんな折、活字に飢えた青年たちが一人、二人と集まり、自然と小さな読書グループができたのです。焼け残ったわずかな本を持ち寄って、手当たりしだいに、貪るように読み、感想を述べ合いました。
 たとえば、『随想録』の一節に「運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いたりする。われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである」(「モンテーニューⅠ」原次郎訳、『世界古典文学全集』3所収、筑摩書房)とあります。名著には、何度読んでも、新しい発見があり、あたたかい励ましの光があります。
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