Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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五 脳死と臓器移植  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  困難な死の定義
 池田 生命倫理と、死にかかわる現代医療との接点で、脳死と臓器移植、植物状態、尊厳死等の問題が出てきております。これらの課題を順をおって取り上げたいと思います。
 現在、日本では脳死状態の患者からの臓器移植の是非が問題になっています。そこで、まず脳死について言いますと、私は、脳死問題の要点は三つのステップに分けられると考えています。
 第一段階は、脳死の判定基準が、脳の機能の不可逆的な停止を確実にとらえることができるかどうかという点です。
 第二段階は、医学的にみて、脳死状態を人間の死として認めることに同意するかどうかという点です。
 そして第三段階として、医学的に承認された死を社会的に受けいれるかどうかというステップに入ります。その民族のもつ死生観によって、また個人の死生観によって、脳死状態を死として受けいれるかどうかは違ってくると思われます。
 博士 いま指摘された問題は、もっぱら近年の現象である医療技術の巨大な進歩から起きたものです。現在では脳にひどい損傷を受けた患者でも、人工心肺などの人為的方法を用いて長期間にわたり〈生〉を維持することが可能です。最小限の神経反応しか示さない意識のない患者でも、機器が作動している限り、身体の機能だけはなんとか維持することができます。
 しかし、機械のスイッチを切るとなると、現代の法医学、倫理の面でジレンマが起きるのです。スイッチを切る基準とは何か。全員が合意できる合理的な死の定義とはいかなるものか。医師たちにとっては、その基準・定義が絶対に必要です。これが得られなければ、生命維持装置のスイッチを切ることによって〈安楽死〉を施した、と非難されるかもしれないからです。
 各臓器の機能停止の時期はそれぞれ異なることもあるため、死とは何かを完全に定義することは困難です。実用一点張りの現代の諸定義は、脳の活動に焦点を合わせる傾向があります。ある人の脳が実際に死んでもとに戻る可能性がない場合、その人は死んだと認めることができます。その人には自分の存在意識がないし、たんに身体の諸器官だけがどれだけ長い間機能しつづけたとしても、その意識は戻らないからです。
 池田 たしかに現代の医学における「脳死」の定義は、たとえば一九七三年の国際脳波学会では、「脳死とは小脳・脳幹・第一頚髄までも含めた全脳機能の不可逆的停止である」とありますね。つまり、すべての脳機能が消失し、不可逆的になった状態を脳死というようです。
 博士 しかしながら、脳死と推定されたものが本当に不可逆的かどうかを確実に知るのは非常に困難です。
 池田 そのとおりです。ゆえに、できる限り多くの検査(深昏睡、自発呼吸の消失、平坦脳波、各種反射の消失等)をして脳機能の喪失を認め、さらに脳死であると判定されてから数時間――日本では六時間をおいて――後にもう一度、機能の喪失を確認しています。
 博士 この点に関しては現在、国際協定が結ばれようとしていますが、それでも絶対に脳が生き返らないかどうかを、どこまで正確に決定できるでしょうか。十九世紀にはもとに戻らないと考えられた病状でも、今日では、かならずしもそうでないものもあります。
 友人の医師たちの話から推測すると、脳死判定に用いられる技術的基準は、関係専門団体によって国ごとに、また国際的なレベルでも絶えず改定されています。国際的な合意は、非公式で法的な資格のないシンポジウムの席で成立していると私は推察します。基準といってもいくとおりもあるわけですが、結局、どれをとってもそれはやはり主観的であり、また少々恣意的であると考えざるをえないでしょう。
 池田 日本の厚生省研究班が示した基準は、世界の他の基準に比べてきびしいほうですが、それでも、さらに、脳循環の測定などの検査を追加することも検討されているようです。
 博士 しかし、現在までに確立されたすべての医学的基準によって、ある患者の脳が不可逆的に機能停止したことが確定した場合、私としては、その人が意識ある人間としての存在を停止したことを認めなくてはならないでしょう。この定義は当然ながら、仏教の概念と大体一致するものです。
 意識がなければ、存在もまたないのです。意識と自我意識は人間としての条件に不可欠のものです。ですから、それらが肉体から去ってふたたび戻らないとき、私としてはその人間はもはや存在しないと認めざるをえないでしょう。仏教の見方からすれば、こうした状態は再生という事象を示すものと解釈できるのではないでしょうか。
2  脳死問題をめぐる様々な態度
 池田 原始経典では「寿」「煖」「識」の三者によって人間の生命活動が維持されていると説かれています。「寿」は寿命であり、「煖」は温かみのあること、つまり体温を指します。そして「識」が意識とか感覚作用を意味しています。
 しかし、この「識」は現代医学でいう「意識」から、一段と原初的な認識・感覚作用までも含めています。この考え方を受けて、識の働きを中心にすえて死をとらえてきたのが唯識学派です。つまり「識」を、「寿」と「煖」を統一する根本と考えるのです。そして、五識、意識(自我意識)や根源的自我としての末那識の働きが、生命根源流としての阿頼耶識に帰入することをもって、死としております。
 一方、中国の天台大師は大集経や竜樹の『大智度論』を引いて、寿命とは「出入の気息」つまり自発呼吸であると示しています。仏教の見方からすると、博士と同じように私も、自発呼吸の消失――レスピレーターで人工的に呼吸は維持されていますが――と、「識」の消失(生命根源流への帰入)とをもって、人間の死ととらえることができると思います。
 しかし、脳死状態を人間の死として認めるかどうかということには、各民族、各個人のもつ宗教、それにもとづく死生観が大きくかかわってきます。現在、西欧諸国を中心にして世界中の大多数の国家・民族では、脳死状態を人間の死として承認しているようです。
 医学的にも法律的にも脳死を承認していない国は、イスラム諸国や日本など、きわめて少なくなってきております。旧ソ連でもすでに法律を制定し、心臓移植を実施していたとの報告が寄せられており、中国でも議論が深まってくれば、承認の方向に進んでいくのではないかと推測されます。
 また東洋の諸国、タイ、韓国、インド等でも脳死は容認されているようです。スリランカではどのような議論が行われていますか。また、脳死問題に対して、仏教者はどのような意見を表明していますか。
 博士 この問題に対する態度が文化によって異なるのは、人間の〈精神的〉生命の〈座〉に関する考え方が異なっているからです。もし、その〈座〉が脳の中にあり、意識と関係があると考えられている場合は、現代の法医学的定義が容易に受けいれられるでしょう。
 一方、それが脳以外の場所、つまりイスラム教の伝統に見られるように、心臓または身体全体に存在するとみなされる場合は、有機体全体が完全に機能停止しなければ人の死を確定することはできなくなります。
 スリランカでは、国際的に承認された法医学的な脳死の定義を容認する傾向にあると思います。今までにスリランカや仏教徒が多数を占める東南アジア諸国で、この問題について大きな論争があったという話は一度も聞いたことがありません。
 池田 日本では、仏教の死生観とともに、人々の心の底に古代以来の独特の霊魂観があって、脳死問題に深くかかわってきています。つまり、身体は無と化しても霊魂は別のものとなって不滅である。そして、その人が死んだと思われる後も、一定期間は魂と身体の未分化の状態がつづき、そのあいだは死体に魂がやどっていると考えたのです。
 ですから、たとえば脳死状態になって、理性的には蘇生の可能性がまったくないことを理解しても、心臓が止まるまで、さらには体温が失われるまで、死にゆく人の側にいて見守ってあげたいという心の深層からの情動に突き動かされるのです。
 一方で、合理的思考により〈死〉をつきつめて考えてこなかったことが、今日の急速な医療技術の進歩に対応できない要因となっていると思うのです。
 今〈脳死〉という問題が、〈死〉について日本人がさまざまな角度から十分に論議するための貴重な機会を提供している、と思っております。そのときに、日本人全体がもう一度、仏教の死生観に重大な関心を寄せることを、私も期待しています。
3  臓器移植は最後の手段に
 博士 次に脳死とも関連する臓器移植についてですが、私には臓器移植に対して倫理的に反対する理由は何もありません。しかし、病気の治療法としての臓器移植が長期にわたって主流となるかどうかは疑問だと思います。臓器移植によって病状が軽減される患者に、死亡した人の角膜や腎臓を移植してはならないとする重大な倫理的理由はまったくないと思います。
 しかし、主要臓器の移植は限られた範囲での成功しか収めていないと私は思います。それはきわめて基本的といってよい理由によるものです。人間の身体は移植された心臓や腎臓を侵入者とみなしますから、当然、強烈な拒絶反応を開始します。臓器移植を受けた患者が生き残れるかどうかは、患者の免疫系の働きを弱めるための薬(免疫抑制剤)の投与に全面的にかかっています。そのような患者は、死ぬまでそうした投薬療法に依存しなければならないのです。
 心臓移植の成功率は世界を通じて低いと思います。それに比べると腎臓移植の成功率は高いのですが、それでも一〇〇パーセントではありません。
 池田 臓器移植には、博士が指摘されたように、免疫抑制剤の問題がつきまとってきます。ゆえに、私自身は仏教者として、臓器移植について次のように考えています。
 臓器移植は、各臓器によって事情は異なるでしょうが、第一に原因疾患に対する研究に全力を注ぐことです。臓器移植を必要とする病状にいたる以前の段階で食い止める予防的治療を、一段と研究する必要があるのではないでしょうか。
 第二に、各臓器ごとに、代替手段の開発に全力を注ぐことです。たとえば心臓の場合には、人工心臓の開発・改良が必須となります。
 第三に、臓器移植のなかには腎臓のように、心臓死の場合でも可能なものがありますから、そうした移植の向上に努めるべきでしょう。
 以上のような将来の医学の方向性を定めたうえで、現在、臓器移植(とくに脳死を必要とする)以外に手段のない患者に対して、お互いに協力し合い援助することが適切であると思います。
 博士 臓器移植は病気治療の最後の手段としてのみ行われるべきであるとのご意見ですが、私も賛成です。今後の最重要の医学的課題としては、臓器移植が必要となるような病気の根本原因を解明し、まず第一にそうした病気を予防するため、その原因に対処しなければなりません。人工臓器の移植が可能な場合には、移植後、拒絶反応という免疫上の問題が発生しないという理由だけに限っても、それが望ましいことはいうまでもありません。

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