Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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三 業と輪廻の思想  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  自己による自身の裁き
 博士 主要な世界宗教はすべて、なんらかの形で永遠の生命観を包含しています。うがった見方をすれば、永遠の生命観は究極的には死の恐怖をバネにしているといえるかもしれません。
 キリスト教では「有機的な」肉体が滅びたあとに「霊的な」肉体が復活すると信じられています。キリスト教の復活という概念は一回かぎりの事象ですが、ヒンズー教や仏教における輪廻転生の思想は継続的に進行する過程を意味し、厳しい宇宙の法として表現されています。
 池田 古代インドの輪廻説は、業説と結びついて、少なくとも古期ウパニシャッドにおいて確立していたと思われます。たとえば「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」、「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」には「五火二道説」が説かれています。「五火」は人間の死後の運命を五段階に分けて輪廻転生を説くものであり、「二道」は、梵の世界に入ってふたたびこの世に帰って来ない神道と、この世に転生する祖道とを示しています。
 また、古期ウパニシャッドの哲人ヤージュニャヴァルキャがジャナカ王に語ったアートマン説に関連して、業説が示されました。ここに善因善果、悪因悪果という業の思想が転生説と結びつくことになります。
 博士 よくわかります。
 池田 ウパニシャッドでは「梵(ブラフマン)我(アートマン)一如」の実現をめざしますから、輪廻の主体は自我であるアートマンになります。ところが仏教では、アートマンという実体的自我は認めず、無我説に立って輪廻転生を示していくことになります。
 一方、西洋では、古代ギリシャのソクラテスやプラトン、またピタゴラス学派の哲学者も輪廻転生説をもっていたようですが、これらはむしろ、オルフェウス教等の東洋の思想の影響によるものと思われます。
 たとえば、プラトンによって書かれた『パイドン』の中で、ソクラテスは、ケベスとシンミアスとの対話をとおして、霊魂不滅、転生説を明瞭に説いています。
 死後の霊魂の存在をめぐる対話の中で、次のようなソクラテスの思想が明らかになってきます。つまり、経験上、たがいに反対の関係にあるものは、相対するものから生じてくる。すなわち、死は生につづき、生は死につづくことになるのである。そして、ソクラテスは次のように断言します。
 「生きかえるということも、生きているものが死んでいるものから生まれるということも、死者の魂が存在するということも、すべて事実なのだ」(『世界の名著6プラトンI』田中美知太郎責任編集、池田美恵訳、中央公論社)と。
 彼は、死に直面して「ぼくをではなく、ぼくの身体を葬るのだと言わなければいけない」(同前)と語って毒杯をあおいだ、と伝えられています。
 博士 仏教とソクラテスの哲学の視点がよく似ているというご指摘は、興味深いものがあります。これら二つの哲学はいずれも、広範囲にわたって多大な影響を及ぼした世界観をもたらしたからです。
 池田 プラトンの「エル千年の旅」にも言及されていることですが、東西の諸宗教、諸哲学で死後の世界を描く場合に、地獄、天界(天上)、審判、死後の生命のあり方などに必ず言及しています。
 たとえば、プラトンは「エル千年の旅」で「死後の裁きの庭」を記述し、そこに到着する魂たちに地獄と天界の様相を語らせました。また、女神のもとにおける運命のクジ引き、「忘却の河」などがしるされています。
 『エジプトの死者の書』では、冥界の王であるオシリスが死者の審判者として表され、死者の心臓がはかりにかけられるという形で審判が行われます。キリスト教やイスラム教での天国と地獄、神の審判等は改めて指摘するまでもありません。
 東洋においても、中国・日本の仏教では、裁きの場所には、死者の生前の業を映しだす業鏡(浄玻璃の鏡)等が置かれています。また『チベットの死者の書』でも、死者の過去の行為が業鏡に映しだされる場面があります。さらに次の生の選択は、六つの門(仏教でいう六道を表す)のどれをくぐるかによって、おのずから決定するとされ、ここにはプラトンの描く「運命のクジ」と同様の考え方が示されています。
 エルが「忘却の水」を飲んで、これまでのことをすべて忘れ去ってしまったということは、仏教では、死後の生命が転生してくる際のショックによって――これを「生苦」といいますが――過去の記憶をなくすと説くことに相当すると思われます。
 日蓮大聖人は、ある信徒への御手紙の中で「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり」と述べられています。
 仏教でいう浄土、つまり仏の住む世界も、地獄の苦悶の世界も、すべて人間自身の生命にそなわったものであり、各自の業によって感じる境界であるとの意味です。
 死後において、生命はそれぞれの内在する善悪の業を実感するのであり、したがって、天界や地獄界も、自己の業の描きだす境界であると仏教では説きます。ゆえに審判とは、自己の業による自己自身の裁きであることがわかります。仏教では、この真実を業鏡にたとえたのだと考えられます。
 博士 仏教以外のあらゆる宗教における死後の審判や天国・地獄の概念には、共通する特徴があります。それは応報の思想を暗示しているということです。つまり、善行は報いられ悪行は罰せられると警告しているわけです。
 これは現実面では、社会的に容認される生活や行為を奨励するという効果をもつでしょう。いまふれられた「裁きの庭」は、ある意味では現実の社会制度や司法制度の延長にすぎないものです。
 これらの事柄に関する仏教の考え方は、基本的に異なっています。それは、先ほどの日蓮大聖人の手紙に要約されているとおりです。普遍的な業の法則が働くのは、ほかならぬ私たち自身の生命の内部なのです。そして一つの肉体から次の肉体へ移ることになっている意識という存在に変更を加えるのです。これに比べれば応報の思想は原始的なものです。
 仏教の見方はより深遠であり、自己改善の哲学を含んでおります。業の推移は多くの点で生物の進化に似かよっています。生物の進化もえこひいきなく冷厳に進行するからです。
2  生命内在の因果の法則
 池田 西洋でも、仏教の説く業の法則に注目した学者がおりましたね。
 博士 ええ。業の法則について、近代西洋における仏教思想の解説者であるクリスマス・ハンフリーズは、次のように書いています。
 「その法則はすべてを包含している。『法句経』の最も有名な一節に述べられているように、空にも、海中にも、また山々のくぼみのなかにも、一人の人間が悪業を免れる場所は全世界のなかでどこにもない。業の法則によって無上菩提を得た者以外はその法からの自由はない。それはその法を働かせていた自我の消滅にともない、もはやその法が作用しうる対象がなくなってしまうからである」「ゆえに、業は永遠に持続する。本来、業をそなえることができ、また必ずそなえている衆生がひとりでも残っているかぎり、業は存続するのである。その忍耐は倦むことを知らない」(ChristmasHumphreys,KarmaandRebirt〈CurzonPress,London,1983〉)と。
 この文章はたしかに、業の法則についての詩的な表現によって人を引きつける一つの説明でしょう。ここでは、業の法則が自然界の法則と同等に考えられています。ある意味では物理学の法則、たとえばニュートンの運動法則に類似しているといえるのではないでしょうか。私はこの点がとても面白いと思います。
 池田 ハンフリーズが引用している『法句経』の「大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い」(『ブッダの真理のことば感興のことば』中村元訳、岩波文庫)との一節は、たしかに業の本質的な一つの側面を的確に表現しており、これは釈尊の教説の重要な中核の一つです。
 釈尊は菩提樹下で悟りを得る過程で、まず「過去の生涯を思い起こす智」に心を向けて、「一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、宇宙成立破壊期を思い起こした」と言います。このように通観した後に、三世に引き継がれていく業の存在を覚知しています。
 仏典には、もろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを見た、としるされています。唯識学派の世親が「業は百劫を経と雖も、終に失壊すること無し。衆縁合する時に遇えば、要ず当に彼の果を酬うべし」(『大乗成業論』大正三十一巻)と述べているように、生命の深層に刻みこまれた業は自然に消滅することはなく、縁に触発されるとかならずその果報を現じていくものです。
 博士 業とは、私の理解しているところでは、個々の人間の一つの生と次の生とを結びつける不確定な属性のことです。業は転生の連鎖(サンサーラ=輪廻)として時間を貫く因果律の糸のようなものです。
 業は個人別に異なった形態をとり、しかも存在するかぎり絶えず変化していく属性である、と私は考えています。現世における思想や行動や経験が、なにかまだ明確にわかっていない仕組みで、この形態の変化を指示しているにちがいありません。
 池田 博士が鋭く洞察されているように、業とは生命内在の因果の法則を指し示しています。業は梵語の〈カルマン〉の訳ですが、その意味は行為ということです。一般に行為というと身体的行動のみを指しますが、仏教では心身にわたる広い意味に使っています。
 つまり、まず第一に、心の中で善悪の意思が働きます。第二に、意思決定の後に実際の行動が起きます。この場合、心の中に起きる善悪の意思を意業といい、それが実際の行動となって身体面に表れるとき、身体で営まれる行為が身業で、口で営まれる行為つまり言語活動が口業になります。ゆえに、業は身口意の三業にわたると考えられます。
 そして、仏教の業論の重要性は、身口意の三業がそのまま消えてしまうのではなく、意思の発動や行為の結果が生命の内部に潜在的なエネルギーとして刻印されていくとする点にあります。この潜在力については、仏教各派によって呼び方が異なりますが、たとえば「無表業」「無表色」「業種子」などと表現しています。
 「業種子」とは、生命内奥の潜在的なエネルギーを植物の種子との類推から「種子」と表現したものです。この業種子が業因となり、そこに業力をたくわえて存続し、生命の外側からの働きかけを待って顕在化すると、業の果報をもたらすことになります。これが業因業果の法則といわれる因果律です。
 個々の生命はそれぞれの業因をはらみ、また業果を現出しながら、この因果律にのっとって過去から現在、そして未来へと流転していきます。
3  転生を裏づける事例
 博士 仏教では人間は一個の心身統一体(ナーマルーパ)であると、かつて私に語った著名なスリランカの仏教学者の言葉を思い起こします。それは初期の段階では、三つの要素から成り立っています。つまり、結合して受精卵をつくる精子と卵子、そして肉体をもたない心(意識)の流れが及ぼす影響の三つです。この三要素が合体して心をもった人間へと発達するというのです。
 この言葉は私に深い感銘を与え、以来、それが生命に関する私の考え方を決定する条件となってきたのです。
 池田 それは各種の仏典に説かれている〈仏教産科学〉のことだと思います。仏教では、人間生命の誕生には、精子と卵子のほかに中有身(識)の顕現が必須条件とされています。これを「三事和合」と呼んでいます。
 そこで、この中有身または識というのは、この大宇宙に融合していた生命であると考えます。さらにさかのぼりますと、前世において死をむかえた人間生命は、宇宙生命そのものに融合していきます。このように宇宙と一体化した死後の生命を「中有身」とか「識」とか「心」と表現するのです。この宇宙内在の生命が、精子と卵子の結合を「助縁」として、この世に姿を現すというのです。
 今日では、このような輪廻転生を示唆する研究を行う学者もいるようです。たとえば、アメリカのヴァージニア大学のイアン・スティーブンソン教授は、インド等の「前世を記憶している子供たち」の話を、現実の証拠と照らし合わせながら試みていると聞いていますが。
 博士 輪廻転生説の裏づけとしては、「過去世における自分の家」と連絡をとろうと懸命になっている少年・少女たちのエピソードを挙げてもいいでしょう。こうした事例はとくにインドに多いようです。
 報告によれば、この子供たちは調査団員に、遠方のさる所へ行って、かくかくしかじかの家をたずねなさい、と言います。教えられたとおりそこへ行ってみると、その子供が生まれたのとほぼ同じころに、その家でだれかが亡くなっていたことがわかります。また彼らは、その家にある家具や玩具などのさまざまな物品について、その種類や形状を驚くほど正確に言いあてるということです。
 この種の報告は数千という数に達しています。これらの報告はまとめて編纂され、伝えられるところによれば数人の作家によってその真実が証明されたということですが、もともとエピソード的な性格のものですから、その信頼性については大いに疑問の余地があるでしょう。
 私が考えるに、輪廻転生説の裏づけとして最も有効なものは、並はずれた才能の持ち主で、しかも数多くの資料が残されている人々の実例であります。
 業・輪廻の理論は、経験が一つの生から次の生へと継続的に累積していくことを前提にしています。この観点からみれば、いわゆる神童と呼ばれる子供たちは、この世に生まれてから二、三年間の乏しい経験だけではなく、いくつもの過去世にわたって累積した経験をも身につけていることを示しているわけです。
 それでは、業・輪廻説以外の観点からは説明がつきそうもない二つの顕著な実例を挙げてみましょう。一人はオーストリアの大作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトであり、もう一人はインドの数学の天才、スリニヴァサン・ラマヌジャンです。
 音楽の天才モーツァルトの上達ぶりはまことに驚異的なものでした。三歳にしてクラヴィーアで正しい和音を弾き、五歳にして簡単な曲を作るようになり、八歳にしてすでに多種多様の楽曲を量産していたのです。わずか三十五年の短い生涯の中で、後世のあらゆる世代の人々に愛好され賛美される音楽を作曲したわけです。この非凡さは遺伝学だけではとても説明できません。
 池田 なるほど。博士の言わんとされる意味はよくわかります。
 博士 それに劣らず不思議なのが、数学の天才スリニヴァサン・ラマヌジャンの経歴です。彼は極端な貧困にあえいでいたインドに生まれました。正式の教育は受けませんでしたが、二十歳のころ、ひと昔前の数学の教科書を一冊手に入れました。この書物を学んだラマヌジャンは、なんとしても自国の有力な数学者と知り合いになり、あっと言わせるような新しい結果を自分が発見したことを認めてもらおうと考え、それを実行に移しました。
 しかし、そうした数学者の大半は彼の主張を無視しました。ただ一人、ラマチャンドラ・ラオだけは、ラマヌジャンの発見した諸結果を見てたいへん感動し、ケンブリッジ大学の大数学者ゴッドフリー・H・ハーディと接触できるようにはからってくれたのです。
 やがてハーディは、ラマヌジャンをケンブリッジ大学に招聘しました。そして同大学のトリニティー・カレッジから、ラマヌジャンの非凡な数学の才能が世界に知れわたるようになったのです。
 ラマヌジャンはバラモン出身の敬虔なヒンズー教徒でした。彼の数学上の諸発見はまことに並はずれたものでした。公式や定理を発見したものの、それを証明することができないという場合がしばしばありました。そうした証明法は後年になって、正式の数学教育を受けるという恩恵に浴した、ほかのもっと凡庸な数学者によって発見されたのです。
 ラマヌジャンの言うには、女神ナマギリが夢枕に立って数学上の重要な結果を彼に告げるということでした。しかし、彼の天才ぶりはそうした神をもちださなくても、輪廻転生の概念によって説明できるでしょう。

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