Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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二 臨死体験と死の不安の克服  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  肉体を離脱した自分を意識
 池田 いま申し上げたように、仏教は永遠の生命観を説いています。古来、生命の永遠性についての論議はあらゆる思想・哲学・宗教の根本テーマでした。最近では、生命の探究への一つのアプローチとして、臨死体験が注目を集めています。
 臨死体験とは、事故や病気等で昏睡状態におちいり、刺激に対して反応しなくなり、時として心停止、人工呼吸器装着の状態になったにもかかわらず、「そのときの状況を見ていた」「肉体から離脱して光の生命に出合った」などという表現で語られる体験です。
 L・A・ムーディーが一九七九年に臨死体験を発表して以来、追試研究が行われてきましたが、今日では、彼が述べる基本パターンはほぼ共通性をもっていることが承認されつつあります。
 ムーディーは内科医ですが、ほかにも精神科医のエリザベス・キューブラー・ロス、心臓医のマイケル・セイボム、超心理学者カーリス・オシスらが研究成果を発表しています。
 臨死体験は、死に臨んで死をかいま見た体験であり、意識を回復して語ることができるということは、死体験そのものではありません。しかし、もし臨死体験の中に、たとえその一部でも死後存在を示唆するものがあるとすれば、人間の死をたんに生物学的・生理的側面のみで判断することはできなくなると思われます。
 ムーディーやキューブラー・ロスらは、臨死体験を通じて死後の生命を確信するにいたったようですが、仏教との関連からも、この体験の意味するものにある程度は迫っていくことができると考えられます。
 博士 臨死体験については、ただいま説明されましたし、今日では文献にも非常に克明に記録されていますが、私は、これによっていつかは生命と意識と心を洞察することができるのではないかと考えています。私が強く感じることは、記録された臨死体験が大体同じパターンであるということです。そこに共通しているのは、肉体を離脱した自分を意識していることのように思われます。
 池田 臨死体験の共通の内容については、マイケル・セイボムが「肉体離脱体験(自己視型)」と「超俗型体験」に分けています(『「あの世」からの帰還』笠原敏雄訳、日本教文社)。前者は、博士が言われたような、身体を離れた自分を意識している体験であり、後者は光に出合ったり、ほかの霊的存在に出合うといった種類の体験です。
 博士 セイボム博士の分類による「超俗型体験」では、体験した状態の特徴は、その人の過去の宗教的体験によって決定されることがわかります。たとえば、キリスト教徒の場合はたいてい、その体験を天使などの聖書の伝承と関連づけて述べています。
 そうした具体的な事柄が、外なる霊的世界が仮にあるとして、その実像を表しているのか、それとも主観的な精神の生んだ概念であるのか。私は後者にちがいないと考えます。つまり、肉体をもたない心が存在すると仮定すれば、そのような具体的描写が可能なのは、その心が以前の、いうなれば〈体験の状態〉を今もなお感じていることを意味するにちがいないからです。
 池田 仏教の視座からすれば、これまでに蓄積してきた業種子を含む〈種子〉の一部が現れている、と考えることもできるでしょう。
 多くの臨死体験では、生涯の出来事を一瞬のうちに回想するともいいますが、少なくとも、死後に心身のすべてが消失してしまうのではなく、なんらかの状態で存在する可能性を示唆する現象であるとはいえます。
 日本の民俗学者によりますと、古代から近代にかけて、臨死体験に類する体験は数多く伝えられているといいます。それらは、日本では、たとえば『日本霊異記』等の書物にまとめられています。スリランカにも、同様の書物または言い伝え等はあるのでしょうか。また、イギリスやヨーロッパに伝えられている体験があれば、ご紹介ください。
 博士 刊行物があるかどうか私にはよくわかりません。しかし、そうした体験をしたという話は数多くあり、この話題を取り上げた最近のテレビの特別番組の中でも使われています。
 池田 この種の体験は、死後の存在を示唆するものではなく、心理学的、また薬物学的に説明できるとする人たちもいます。しかし、心理学・薬物学・神経学的な解釈だけでは、いずれも臨死体験の内容を十分には説明しきれていないようですが。
 博士 こうした現象はさらに研究する価値がありますが、これまでに得られた証拠だけではまだ結論が出せないと思います。なんといっても、研究の対象となった個人の〈有機的な〉脳は、臨死体験をしたときに〈死んで〉いなかったことを忘れてはなりません。したがって、こうした現象の心理学的ないし薬物学的な説明も頭から除外するわけにはいかないでしょう。
 ただ、今までのデータを額面どおりに受け取れば、それは死後に意識が肉体を離れ、孤立した個性と存在をもつという仮説とまさに一致するように思われます。
 適切な意識の理論は、一連の超俗的・神秘的体験を説明できるものでなければなりません。先ほど話されたように克明に記録されている〈臨死体験〉も含めての話ですが。
 池田 いずれにせよ、現代人が死という問題に真摯に光を当てるようになれば、死の恐怖や不安もうすらぎ、さらには、それを乗り越える契機になるのではないでしょうか。
2  物質主義ゆえの恐れ
 博士 〈死の恐怖〉をどう克服するか。私は、死の恐怖はもっぱら無知からきていると思います。つまり、死という体験がどういう性質のものなのか、そして死後に何が待ちうけているのかということを知らないからだと思うのです。
 私たちはみな、この問題とやがて自分自身にやってくる死に対して物質主義的な立場から取り組みます。それは、私たちの信念も物の見方も物質中心だからです。私たちは生涯、極端に物質主義的な世界に浸りきりになるのであり、生命を大事にするのも、その物質的な属性を尊重するからにほかなりません。仏教の教えでは、これは貪欲と変わるところがありません。
 私たちは死によって、自分の物質的な属性が最終的にすべて自分のものでなくなると考える傾向があります。ですから死を恐れるのです。それは、生きているときに自分の物質的所有物のどれひとつでも、それを失うことを恐れるのとまったく同様です。今日、私たちは明確に非宗教的・非精神的な世界に住んでいるだけに、死のとらえ方がこれまで以上に問題になっているのではないでしょうか。
 池田 たしかに現代人は、物質主義的な世界観と物質的欲望・貪欲に振りまわされた社会に生きています。その結果、現世主義に逃避し、心の内奥の世界や死のことを考えようとしない、刹那的な人生になりかねない傾向にあります。
 なかには、死に直面して初めて不安や怒りや恐怖におそわれ、なすすべを知らないといった状況さえあります。博士が指摘されたように、すべてを物質的観点からしか考えることができないため、死がおそいかかってくると、まず今世に築き上げた物質的環境・金銭・財産やそれにまつわる名声・権力等の喪失を恐れるのです。
 しかし、死への恐怖の奥には、自身の肉体が物質的に崩壊すれば、そのことによって自己自身が断絶し、消滅してしまうという底知れない絶望感――仏教でいう「断見」――が待ちうけているのではないでしょうか。心の世界、精神の領域、宗教の分野に目を向ける必要がここにもあります。
 しかも、現代では医学の長足の進歩により、死と対峙して生きなければならない臨終の期間が大幅に延長されています。ここに、ターミナルケアをどのように行えばよいのか、つまり現代人が死と対面し、死の恐怖・不安を乗り越えるために、どのように援助をすればよいのかといったテーマが、現代医学の最大の問題となってきました。
 同時に、この分野から物質主義を超えるもの、つまり永遠なる生命を志向する宗教的視点の復活が叫ばれるようにもなってきたと思われるのです。
3  〈永遠なるもの〉に根ざして
 博士 いまターミナルケアに精神的・宗教的視点を復活させようとする現代の傾向性について説明されましたが、私は、それがどのような形をとるにせよ、重要なことであると思います。キリスト教的心霊主義にするか、それとも仏教の業報論にするかという問題の前に、まず大事なことは、死を超越する存在について、何か視野の広い見方があるのだということを、一般の人々が知ることでしょう。
 池田 仏教では、人間の苦を「三苦」として分類しています。たとえば『倶舎論』には「苦苦・壊苦・行苦」とありますが、このうち苦苦は肉体的苦痛であり、壊苦は心理的・精神的苦しみを指します。そして、行苦は実存的・宗教的次元の苦悩を意味しています。人間に死が切迫してきたとき、また自己の死を自覚したときには、この三つの苦しみが凝縮しておそいかかってくるというのです。
 このなかで苦苦に関しては、最近ではペインクリニックの発達が期待されます。また壊苦についても、家族の協力や医療体制、社会福祉等を整備することによって和らげることができるでしょう。
 しかし、行苦という自己自身の消滅におののく実存的苦しみに直面し、そのような死の底知れぬ不安・恐怖を乗り越えるには、〈永遠なるもの〉に根ざした死生観を血肉化していくことが必須となるでしょう。私は、医学の進歩や社会体制の整備とともに、宗教とくに仏教の死生観を血肉化しゆくとき、三苦からくる絶望や悲しみを乗り越えて、人生の最終章を安穏と充実へと変えていくことができると思います。
 一般的に、死の切迫を自覚したときの患者のたどるプロセスについては、キューブラー・ロスが五段階説を唱えています(『死ぬ瞬間』川口正吉訳、読売新聞社)。つまり、まず自己の死そのものの「否認」が起こり、次いで否定しきれなくなると、運命・宿命への「怒り」がつきあげてきます。さらに、神や仏との「取り引き」に入る人もいます。日本では「かなわぬときの神だのみ」といいますが、それでも効果がないとなると、深い「抑うつ」状態におちいっていくといいます。最終の「受容」の仕方は、人によって千差万別でしょう。
 この説は、西欧では典型的パターンとして認められているようです。また、トルストイの『イワン・イリイチの死』の内容を分析してみますと、ほぼキューブラー=ロスの五段階説が当てはまるようです。しかし、日本では若干、様相が異なっています。つまり、抑うつの感情がプロセスのほとんどを支配することが多いようです。
 それにしても死に直面すると、怒りや抑うつ等の煩悩が心の中に荒れ狂うことは共通しています。宗教者の役割はまさしく、怒りや抑うつ状態におちいり、苦悩する患者に積極的にかかわり、苦しみと悲哀のプロセスではなく、残された生を充実と自己実現、さらには創造的歓喜のプロセスへと転換させていくことにあると思います。
 博士 おっしゃるとおり、肉体的・心理的苦痛はもちろん、現代の医療で和らげたり取り除いたりできます。しかし、死への恐怖は、それが無意味で悲劇的な結末だと考えるところから来ています。
 この恐怖をしずめるには、宗教を根本にした教育によらねばなりません。仏教の見方では、肉体は〈業〉の容器とみなされています。一つの容器から次の容器へ、つまり一つの生から次の生へ移ると考えれば、死は大きな悲しみや苦しみではなくなるはずです。
 この仏教の視点は、死に関連する苦しみを和らげるうえで、いや、もしかしたらそれを取り除くうえで、きわめて貴重なものであると思います。

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