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日蓮大聖人・池田大作

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一 心身論と死後の生命について  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  依然として謎の〈心〉
 池田 さて二十一世紀は〈生命の世紀〉といえると思います。〈生命〉の問題は、科学の急速な進歩により、さまざまな次元で論議をよび、光が当てられてきています。
 まず心身論は、古来、哲学や宗教の問題として議論されてきましたが、今世紀に入ってからは脳科学の発達によって、心(精神)も脳作用のメカニズムに還元できるのではないかという唯物論的還元論が主流になってきました。とくにこの二十年ほどのあいだ、神経生理学の成果をもとに、人間の心も基本的にはニューロン(神経単位)の働きや脳内物質の分子の次元の種々の働きから解明できる、という立場が表明されているように思われます。
 このような立場では当然のこととして、脳という物質的存在が消滅すれば、そこに発現していた心の作用も消失してしまうことになり、死後の存在を考える余地がなくなってしまいます。
 ところが一方、心身医学や深層心理学等では心の存在を重要視して、心と脳との相互作用――つまり脳から心への作用とともに、心から脳への影響性をも実証するにいたっております。そして、深層心理学者のなかには、ユングのように死後の存在を確信していた人も少なくありません。
 しかし、心という実在が現実世界では働いても、脳という物質的基盤が死とともに失われれば、心も消失してしまうと主張する人もいます。
 最近になって、脳科学者のなかからも、心は脳とは別の非物質的実在であり、その心が脳という物質的存在と相互に関連し合っているという説を表明する人も出てきました。
 博士 このテーマは、本対談の核心の一つにふれるものです。最近の神経生理学や心理学の研究はたしかに波紋を起こしています。デカルト流のパラダイムを信奉する科学者たちは、心や意識が脳細胞と別個の存在でないことを前提として、神経生理学や心理学の研究にとりかかりました。十九世紀後半に科学者たちは意識の存在を認めるようになりました。そして実験心理学が発達するにつれて、脳の構造と機能を分析すれば最終的に意識の本質を理解できるのではないかとの希望がもたれました。
 しかし、もちろんそうはいきませんでした。脳と心の研究をめぐる状況について、一九四三年に著名な神経生理学者であるチャールズ・シェリントンが要約した言葉を引用したいと思います。この状況は今でもたぶん変わっていないはずです。『人間の本質について』と題した著書の中で彼は次のように述べています。
 「〈心〉という問題に関していえば、神経系はローマ教皇のような絶対的権威をもった一個の細胞を中心にして統合されているのではない。それどころか、それより百万倍も民主的な体制を作り上げているのである。かれら(脳細胞)は、絶えず変化する模様を織りなしていく。同じ模様がいつまでもつづくことは決してない。これはまさに魔法の機械の仕事といっていいであろう」(Sir Charles Sherringotn,”Manon His Nature―the Gifford Lectures,Ⅰ937ー38”<Cambridge University Press,1940>)
 池田 意識を物質的な脳の働きとみなそうとしても、そのように〈考えている〉自らの〈心〉は依然として不可解なままです。博士が引用されたシェリントンの弟子であるワイルダー・ペンフィールドは、著書『脳と心の正体』の中で恩師のことを回顧して、「私の恩師チャールズ・シェリントン卿は、反射と神経系の統合作用に関する研究でノーベル賞を授けられた。彼の関心は主として生まれつきの反射(無条件反射)に集中していたが、一九三五年に七十八歳でオックスフォード大学の生理学教授の職を退くと、動物実験の世界から離れて、人間の脳と心の関係に関する専門的で哲学的な考察に専心した」(『脳と心の正体』塚田裕三、山河宏共訳、文化放送)と書いています。
 そして、ペンフィールドは、恩師の到達した結論の言葉を引用しています。「人間は二つの基本的な要素から成るという説が、一つの要素から成るという説と比べて真実性が少ないとは思えない」(同前)というのです。心は脳の働きに還元できるとする物質的一元論から、人間は二つの基本的な要素、すなわち脳と心から成るとする説のほうに真実性が少ないとは思えない、つまり、人間生命は脳と心から成立しているとする考え方に傾いていったようです。
 また、シェリントンといっしょにノーベル賞を受けたエドガー・エイドリアンが「自分の内面的な世界に思いをめぐらしはじめると、われわれは直ちに自然科学の領域から足を踏み出してしまうようだ」(同前)と述べたといい、ペンフィールドは「私も同感である」と賛意を示しています。
 博士 この点に関してもう少し引用させてください。私たちが他人の言葉を引用するのは、その言葉が私たちの言いたいことをより力強く、より簡潔に表現しているからなのです。哲学者カール・ライムント・ポッパーは、ジョン・エックルズとの共著『自我と脳』の中で次のように述べています。
 「ここでいう自我とは〈純粋我〉ではない。つまり、たんなる主観ではない。それどころか、驚くほど内実に富んでいる。水先案内人のように、観察と行動を同時に行う。行動しては苦悩し、過去を想起しては未来を計画し組み立てる。つまり将来を予測し対応する。この自我を構成しているのは、願望、計画、希望、行動を起こす決意、そして自らが行動する自我であり行動の中心であるとの鮮明な意識である。これらの構成要素は、あるときは一つずつ矢継ぎばやに現れ、あるときは全部が同時に現れる」(Karl Popper and J.C.Eccles,The Self and Its Brain<Springer International,New York,1977>)
 天文学者のアーサー・エディントンはかつてこう述べました。
 「心は私たちが最初にかつ最も直接的に経験するものであり、それ以外のものはすべて間接的な推論にすぎない」(A.S.Eddington,”Science and the Unseen World”<Cambridge University Press,1929>)と。
 多くの科学者が長年にわたり同じような心情を吐露していますが、心とその働きの厳密な定義については戸惑いを見せております。脳の綿密な生化学的・生理学的解明には最近巨大な進歩が見られますが、〈心〉〈意識〉〈自我〉という現象は依然として謎のままなのです。
2  還元主義的な方法は失敗
 池田 たしかに現代の精密な脳科学の発達は驚異的です。本能、情動の座、思考の座、創造の座、記憶の場等を探究して、今日では、右脳と左脳の働きの違い等が話題になっています。
 しかし、博士が言われるように、〈心〉それ自体については、はたして神経細胞のネットワークや種々の神経伝達物質の働きに還元できるものだろうかという疑問は、依然として残っています。
 博士 心は脳の内部におけるなにか不明確な「電気化学的過程の流れ」である、と説明したがる科学者もいますが、どのような心の現象であれ、どの程度までこの概念の枠内で説明できるかといえば、きわめて初歩的なものに限られます。
 たとえば、性欲や怒りの情動は、脳のある領域に神経インパルスを起こすことによって生じることがわかっています。しかし、そうした関係がわかったからといって、それはまだ氷山の一角であり、私たちの主観的な経験の解明にはほど遠いのです。
 池田 そこで、〈心〉それ自体を内奥に向かって照射しようとする心理学の試みは、西洋ではフロイトの精神分析学以来つづけられてきました。
 博士 たしかに今世紀初頭に発達した精神分析学は、人間の主観的経験に注目し始めましたが、それを解明するための首尾一貫した論理的体系、つまり理論を構築することはできませんでした。
 一貫した論理的体系の枠内で主観的体験を解明し、適切な心の理論を外的世界のいわゆる客観的モデルに結びつける努力こそ、現在最も重要なことではないでしょうか。脳の機能に関心のある科学者たちも、そうしたことを本気になって考え始めたばかりだと思います。
 池田 先ほどの例では、性欲という本能や怒りの情動が起きるとき、活動を高める脳の部位(大脳辺縁系)があるということがわかったにすぎません。それだけで欲求や怒りの心それ自体を解明できたとはいえないと思います。
 ここで私は、ペンフィールドのリポートを思い起こします。彼は、恩師のあとを継いで研究をつづけていますが、一つの重大なリポートをしています。それは、てんかん患者の診察と治療にあたっていたときに、患者の側頭葉のある部分に電気刺激を加えると、その人は幼児期からの過去の記憶をよみがえらせたという、まことに驚嘆すべき実験に関するものでした。
 彼はこのような臨床実験をもとに、大脳はコンピューターであり、心こそプログラマーであるという結論を導きだしています。
 博士 その結論は、脳と心の両者間に存在すると思われる関係性について、きわめて重要な示唆を与えるものです。ただ私としては、この問題についての私たちの考えはまだあまりにも幼稚であり、その真相に到達するのははるか先のことであると思わざるをえません。
 池田 次に、博士が先ほど名前を挙げられたノーベル生理学・医学賞を受けたジョン・エックルズも、世界は物質の世界と心(自我意識)の世界に分けられ、物質世界の一部である脳と心の間には密接な相互関係が存在するとして、両者の接点の場を大脳の中に求めています。
 博士 やっかいなことは、ほとんどの科学者がいずれも、デカルト流の還元主義的パラダイムを信奉しているということです。
 しかし、彼らの最近の研究成果に関して、ジョン・エックルズらの多くの優れた科学者は、それらが還元主義的科学者自身の主張に矛盾していること、つまり〈心〉が脳の物質的構造とは別個の実在として顕現するものであることを示唆している、と解釈しています。
 こうした点からみて、純粋に還元主義的な方法でこの問題に取り組もうとする努力は失敗に終わったように思われます。
3  死後存続の可能性
 池田 精神分析学は、今日では医学の分野にも多大な影響を与え、心身医学を支える一つの柱となっています。心身医学者であり神経生理学者でもあるバーバラ・ブラウンは「心は脳を超える」(『スーパーマインド』橋口英俊、松浪克文、山河宏、三宅篤子共訳、紀伊國屋書店)と言い、その心が脳をコントロールすることを「バイオフィードバックの技術」を用いて証明するにいたっております。
 この人たちのように、心という実在は脳を超えており、逆に心が脳に影響を与えるとするならば、今度は脳という物質的存在が消滅したあとも、心はなんらかの形で存続する可能性が生じてきます。事実、ペンフィールド、エックルズ、ブラウンらは、心の死後存続の可能性を表明しています。
 このように現在、心身論の中からも、科学的実証(脳科学や心身医学、深層心理学等)に耐えうる形で、死後存続を指し示す学説が出てきているということは、今後の状況を待たなければならないとはいえ注目すべきことです。物質に還元する方向のみを万能として進んできたように見える科学が、心という実在、そして死後存続をも視野に入れる新しいものへと転換しつつあるように、私には思われます。
 博士 たしかに現在の科学は、〈心〉であるとされる本質的に非有機的・非物質的な領域が脳の上部構造として存在することを認める方向にある、といっても過言ではないでしょう。もしそうであるならば、死後における〈心〉の存続は、論理的帰結として認めざるをえなくなります。
 池田 中国の妙楽大師は、「色心不二門」という法理を立て「總は一念に在り、別は色心を分つ」(『法華玄義釈籤』巻第十四〈大正三十三巻〉)と論じています。日蓮大聖人は、この妙楽大師の「總は一念に在り」ということについて、さらに深い次元から次のように論じられます。「一偏に思ひ定め難しといへども、且く一義を存ぜば、衆生最初の一念也と定む。心を止て倩按ずるに、我等が最初の一念は無没無記と云て、善にも定まらず、悪にも定まらず、闇々湛々たる念也。是を第八識と云ふ」と。(『昭和新定日蓮大聖人御書』第一巻〈読みやすくするために本文に少し手を加えた〉)。
 通解すれば、「(『總は一念にあり』の意義は多くを含んでおり)一方に割り切って考えを定めることはむずかしいが、仮に一義を述べてみると、衆生の最初の一念をいうのである。心を定めてよくよく考えてみると、私たちの(この世でなす)最初の一念は無没無記といって、善にも定まらず、悪にも定まらず、闇々湛々とした念なのである。これを第八識というのである」ということです。
 さらにこの第八識(阿頼耶識)から、第七識(末那識)、第六識(意識)や身体(色法)が顕在化してくる様相を示されています。ここに、色心不二の「不二」とは、前にも述べましたように「而二不二」(二にして二ならず)という意味です。
 この法理を私たちの生命にあてはめますと、「色法」として顕在化している身体の働きと、「心法」としての心の働きは、現象面では別のものとして区別されるので、この両者の関係性を「而二」と表現します。
 「色法」と「心法」の相関関係については、これまで話し合ってきたように、現代科学がすでに実証しているところであります。しかし仏教は、身体と心の働きに分かれた現象面より一段と深い次元に根源的生命をとらえ、そこにおいては色心が融合し一体である、つまり「不二」であると洞察したのです。
 日蓮大聖人はこの生命深層の次元を、「一義を存ぜば」とされたうえで阿頼耶識として示されました。阿頼耶識は、業を内包し生死を流転する根源的生命ですから「無没」です。この生死をとおして無没なる生命を、脳科学者やユングらの心理学者は「心」の側面から志向しているように思われます。
 日蓮大聖人の仏法では、さらに「色心不二なるを一極と云うなり」と説いています。ここに、一極とは究極の生命をいい、九識論でいう「阿摩羅識」であり、宇宙根源の大生命を指します。宇宙生命そのものが「色心不二」の当体であり、個の生命はこの宇宙根源の当体に支えられ、永遠なる生死を繰り返していくというのです。こうして心身論からも、宇宙生命への道が通じているように思います。
 博士 私もまったく同じ意見です。意識にはさまざまな段階がありますが、そのすべての根源は阿頼耶識であり、さらにそれを支えているのが、私の表現では、宇宙にそなわり万物に行きわたっている宇宙的普遍意識、つまり阿摩羅識であります。この九識論は非常に興味をそそる概念です。否応なしに納得させる力をもっているように思われます。

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