Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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七 生命尊厳の理念  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  草木の保護を重要視
 博士 次に、今日、大規模な森林伐採による生態学的災害が心配されていますが、釈尊ならびにスリランカやインドの仏教徒である王たちが、草木の保護を非常に重要視していたことは、たいへん驚くべきことだと私は思います。
 仏教は、いくつかのインド宗教に見られるような、植物と動物を同種類とみなす極端な考えはとりません。しかし、仏教僧(比丘)による草木の破壊は著しい非行となることが、『律蔵』に強調されているといわれています。草木には有益な農業的・医薬的効用があり、さらには草木が形づくる自然環境が人々の芸術生活や知的生活に強い影響を及ぼすことが認識されていたからです。
 釈尊は菩提樹の下で悟りを開きました。釈尊に仕えた仏教僧のメシヤは、マンゴーの森を見たとき、次のように述べたと伝えられています。「これは実に黙想にふける者にとって最適の場所であり、精神集中のために良い場所です」。そして彼は、さっそく釈尊にその森に住む許しを請うたのです。
 池田 釈尊の四大事、つまり誕生、成道、初転法輪、そして涅槃も、すべて森林や樹下で起こっています。また『長部』には沙門瞿曇(釈尊)「は是の如き等の諸種の種子と諸種の樹木とを伐採することを離る」(長部経典一、「沙門果経」、『南伝大藏経』第六巻)とあります。つまり、釈尊の慈悲は動物のみならず植物にまで及び、むやみに切り倒さないように、種子をも害することがないようにと説法されています。
 博士 アショーカは、森林の破壊は社会を害するものであると認識し、森林を燃やすことを禁ずる法勅(石柱に刻まれ現存している)を出しました。
 現代世界においては、一方では緑地帯が、他方では熱帯雨林が破壊されて、それがさまざまな問題の原因になっていることを、もちろん私たちは痛感しています。ある国々に対して、森林伐採事業を遅らせたり断念するように説得することは、たいへん困難になっています。とくに世界の貧しい国々では、短期的な経済利益という光のまぶしさに目がくらむことが、あまりにもしばしば見られます。それにつけても、こうした問題についての仏教の教えに具現化されている英知には驚嘆せざるをえません。
 池田 牧口初代会長は『人生地理学』の中で、植物と人生について種々の角度から論じていますが、植物の実用的側面を示した後、「植物の人生に対する精神的方面」の一項をもうけています。
 その中に「要するに植物は吾人の美情を興奮し、吾人の殺気を緩和し、吾人の詩趣を発酵し、以て吾人の心情を涵養するもの也」(『牧口常三郎全集』第二巻、第三文明社)とあります。
 植物が人間に与える農産物や薬物といった物質的側面、また地球生態系における生産者としての役割とともに、平和の心情を養う心理的・精神的影響性をも考慮すれば、仏教が草木保護を重要視した意味が一段と明瞭になるでしょう。
 日本の仏教では、生あるものの尊厳性を表す「一切衆生悉有仏性」という法理とともに、「草木国土悉皆成仏」の文がよく引用されます。中国の天台大師や日本の日蓮大聖人も「草木成仏」の思想を説いております。この思想は、植物を含む自然生態系そのものが、人間と同じく成仏しうるというものです。
 仏教では、すべての衆生に仏性という仏になりうる可能性があると説きます。この法理が「一切衆生悉有仏性」です。しかも仏教では、草木や国土(自然生態系)をも、すべて生命的存在としてとらえ、成仏の可能性を指し示すのです。
 すべてのものが相互に依存し、無尽の連環をなしている縁起の法理に気がつけば、人間の中に自然への共感、自然が傷つくことへの痛みの共有がわき起こってくるのではないでしょうか。このような生命尊厳の理念こそ、現代人、とくに先進工業国の人々の自然観となり、人生の指針となるべきでしょう。
 生活の中で、仏教で説くような自然と人間の一体性を感じとってこそ、草木保護に関する政策も実効性を発揮してくるのではないでしょうか。
 つまり、先進工業国の人々の生き方の変革、自然の征服や略奪による欲望の充足ではなく、自然とともに享受する心豊かな生活を基盤として、経済構造そのものを浪費型から循環型へと転換していくことをめざすべきです。
 ところで、人間生命の尊厳を根底から破壊する行為が戦争であることはいうまでもなく、アショーカも、不殺生・不傷害として武力の行使を否定するにいたったことは、すでに話し合ったとおりです。
 もう一つの特徴は、人間生命の尊厳性への考えが刑罰の問題にも重大な影響を及ぼし、インドの仏教徒たちは死刑を端的に否定しています。
2  仏教は死刑を否定
 博士 私は死刑にきわめて強い反感を覚えます。死刑は悪党に対する社会的報復という観点からしか正当化されないのであり、私は死という絶対的な結末による復讐は野蛮であると思います。復讐というのは、仏教と同じくキリスト教にもなじまない行為です。
 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(「マタイによる福音書」。訳は前掲『聖書』による)
 こういう背景がありながら、なぜいくつかのキリスト教国で死刑が行われているのか、私には理解しがたいことです。私は死刑を、国家権力の究極的かつ邪悪な表現であるとみなします。いかなる人間にも、いかなる集団にも、他者の生命を奪う権利はないと思うのです。
 ある意味で死刑は、国家が神の役割を強奪した一例とみることもできるでしょう。人間の生命は神から与えられたものであり、神だけがそれを奪う権利をもっていると考えるのが筋だからです。しかし、もし国家権力を神から授けられたものとするならば、死刑という野蛮な行為を正当化する試みも可能でしょう。
 人間以外の動物ですら、ただ復讐のためだけで殺すことはしないという事実は、考えてみる価値があります。殺害は当然起こりますが、それは交尾期の競争相手を排除するためとか、捕食のためという強い生物学的目的がある場合に限られます。
 死刑の由来は、有史以前にさかのぼると考えられます。人類が一家族を超えてさらに大きな社会集団を形成する以前のことです。死刑は近親相姦や不貞、タブーを犯すといった犯罪に対して宣告されました。
 その後、ずっと時代がくだってから出来あがったかなり洗練された社会制度においてさえ、死刑は廃止されませんでした。ヘブライ人は犯罪者を投石で殺し、古代アテナイでは、ソクラテスは「若者を堕落させた」という理由で毒をあおがされ、ローマでは犯罪者はライオンや蛇に投げ与えられたのです。
 このような残忍な行為が文明社会で可能であったことは不思議に思われます。死刑が完全に廃止された最初の文明社会は、アショーカの統治するインドでした。
 池田 わが国においても、仏教の生命尊厳の理念が社会全体に浸透していった例として、平安時代の四百年間、死刑が一度も行われなかったことを挙げておきたいと思います。
 日本の平安時代は、比叡山に天台宗が創設され、法華経を根本にして仏教文化の華を咲かせました。法華経の根本精神は、「一乗平等」の思想であり、すべての人々の内奥に輝く仏性を知見し、開示することです。平安時代には、この『法華経』の精神が広く流布していましたから、法律もこの精神にのっとって運用されたようです。
 ゆえに、たとえ死刑にすべき罪人であっても罪一等を減じ、最高刑は遠島(島流し)でした。この事実は、文明化社会にあっては人類史上、他に例のないことだといわれています。
 トインビー博士は私との対談の折に、死刑廃止の理由として、第一に、どんな人間にも、他人の生命を奪う権利は道義上まったくないということ、第二に、一度殺してしまった生命はもとに戻らない、たとえどんな重罪を犯した人でも、生命ある限りは道徳的に更生する可能性があること、を挙げていました。
 私自身、仏教者の一人として、さまざまな論議があるにしても、死刑は廃止すべきであるという立場をとっています。
 死刑の存続を主張する人は、死刑が犯罪の抑止力になるという効果を説いています。しかし私は、そういう考え方には殺されたことへの報復の思想、生命を奪うことによる他者への見せしめの思想があると思うのです。怨念による報復はかならず新たな報復を招き、悪循環をもたらします。
 見せしめという考え方についても、私は、仏性をそなえているゆえに尊厳である生命を、生命以外のもののために手段化するのは許されないことだと思います。
 博士 私も、同じく社会的に必要な行為として死刑を勧める論議は、いっさい認めることができません。死刑が犯罪抑止効果をもつという論議は、おそらく最も説得性のあるものでしょうが、欠陥があることは周知のとおりです。
 常習犯は捕まることはないと確信して罪を犯すのですから、刑罰は決して犯罪の抑止にはなりません。イギリスで絞首刑が公開されていた当時、ある教戒師が述べたことですが、絞首台で最後の勤めをしてあげた一六七人の死刑囚のうち、一六一人は以前に一回またはそれ以上の絞首刑を見にいっていたというのです。
 死刑があるおかげで殺人発生率がわずかに減少したというアメリカの最近の統計はややあいまいで、さまざまな説明を必要とします。
 現在でも死刑が行われている国々で、死刑が執行される主な犯罪は殺人です。一人の人間を、さらに殺人を重ねる恐れがあるから死刑にするという論議は、私には十分に説得力のあるものとは思われません。終身刑によって達成できない社会的利益が、死刑によって達成されるはずはないのです。
 取り組まなければならない社会問題は犯罪一般、とくに殺人行為であり、犯罪者ではありません。精神異常者の場合、原因となっている問題が何であるかを確認できれば、その解決のために、またその犯罪者を更生させるためにあらゆる努力を払わなければならないと思います。犯罪の原因が社会的・経済的な逆境にある場合には、対処すべきはこれらの諸問題であり、犯罪者に対する報復ではありません。
 池田 この死刑の問題で思い起こされるのは、一九四六年に開廷された極東国際軍事裁判です。この裁判は第二次世界大戦における勝者が法廷を構成し、敗者の戦争責任を裁くという裁判であったわけですが、A級戦犯二十五人のうち七人が絞首刑になっています。
 戸田第二代会長はこの裁判について、太平洋戦争の悲惨さを十分考慮したうえで、真の生命の尊厳性を包みこんだ仏教精神から「死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう」と指摘されていました。
 また、被告の無実を主張したインドのパール判事は、東洋的な英知でこの裁判の非法性を洞察し、不合理な裁判が人を殺すことの恐ろしさを精密な国際法理論のうえから展開されていました。私は一仏法者の立場から、こうした史実を小説『人間革命』にしるしておきました(『人間革命』第三巻、「宣告」の章、聖教新聞社)。

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