Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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六 「心の平和」論  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  生命の浄化、変革が根本
 博士 ここで、アショーカの政治やスリランカ仏教の源泉となった釈尊の〈平和観〉にふれておきたいと思います。私は、〈心の平和〉こそ、釈尊が「四諦」ならびに「八正道」を説くにいたった根源的探究のめざすものであったと考えています。釈尊自身、特権階級の生活を送っていた若いころに、さまざまな正反対の現実と対立の世界、すなわち富裕と赤貧、禁欲と放縦、病気と健康、青春と老年、生と死などを目の当たりにしました。これはいったい何を意味するのか。根本的にはこの疑問に対する解答を見いだそうとする試みが、釈尊を悟達すなわち仏界へと導いたと思うのです。
 池田 たしかに、釈尊は〈心の平和〉を重視したといわれています。「平和」を表すサンスクリットの「シャーンティ」は「寂静」を意味しています。そして、心の安穏をめざす修行として「禅定」(ディヤーナ)を説いたとされています。
 博士 世界平和の安定した状態をつくりだすための一つの必須条件は、個々の人間の中に内なる平和を求めることでなければなりません。一人ひとりが自身の心の平穏を保つならば、一国全体が平和になり、やがて全世界も平和になるでしょう。地球上における人間集団の戦争や交戦状態は、富や資源、権力を求める人間の渇愛(タンハー)が主要な原因であると思います。
 池田 この問題の本質を仏法では、「瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」(『法華文句』巻四下、大正三十四巻)(瞋りが激しくなると戦争が起き、貪りが増すと飢餓が起き、愚かさがはなはだしくなると疫病が流行する。このように三つの災いが起きるときには、人々の煩悩はますます盛んになり、もろもろの邪見は一層はびこるのである)と指摘しています。
 戦争・飢饉・疾病等の地球社会の混迷、衰退現象は、根本的には人間生命の濁り――貪・瞋・癡の三毒ならびに諸見(誤れる見解、イデオロギー)等から起きるものであり、指導者たちの〈権力の魔性〉の基底に、生命に内在する三毒等の煩悩、渇愛の暗躍、悪魔性の跋扈を見通されていたのです。
 ゆえに、政治や経済のみの次元では、こうした人間社会の宿命的な鉄鎖を断ち切ることはできない。生命それ自体の病ともいうべき煩悩の濁りを超克していく、つまり生命それ自体を浄化し変革していくことこそ根本であり、たしかなる恒久平和への大道である。これが仏教の法理であり、私どもの実践の基軸でもあります。
 博士 釈尊は心の内面の対立を克服するために「八正道」を勧めましたが、その内面的対立に加えて、世界には富者と貧者の対立、国家間および民族間の対立といった外面的対立も見られます。これらの争いはかならずしも「戦争」とはいえませんが、戦争と呼ぶにふさわしい状況になる場合も多いのです。
 世界の平和も、仏教に示唆されるような〈全包括的世界観〉が普及するまで、これを達成するのはむずかしいかもしれません。しかし、とにかく世界平和は、人類の一人ひとりが心の内面の平和を求めることによってのみ実現すると私は思います。
 池田 私はそのことを考えるとき、イギリス帝国主義に対して非暴力(アヒンサー)による抵抗運動をもって真正面から挑戦した、マハトマ・ガンジーの次の言葉を思い浮かべるのです。「非暴力は臆病をごまかす隠れみのではなく、勇者の最高の美徳である。非暴力を行なうには、剣士よりはるかに大きな勇気がいる」(『わたしの非暴力』森本達雄訳、みすず書房)と。
 心の平和とは、非暴力、慈悲という精神力、魂の持続的な顕現によって可能になる偉大なる境涯といえましょう。
 武器や暴力・権力が人間の悪魔性を誘発するのに対して、ダイナミックな〈心の平和〉をめざす慈愛と信頼の戦いは、人間に内在する善性を触発します。生命内在の善性、善なる精神力を呼び起こし輝かせていくところに、たしかな平和への道があると私は信じております。
 博士 心の平和が優位を占めるような社会状態を取り戻すうえで、アヒンサーと同類の哲学が役に立つように思われます。しかし、たぶんその実現は容易ではないでしょう。私たちが競合的な精神の土壌にあまりに深くはまりこんでいるからです。
 「アヒンサー」はサンスクリットで「不殺生」という意味であり、仏教では重要な倫理的価値と考えられています。仏教徒は、人間であれ動物であれ、その生命を奪うのを差し控えよと戒められます。この戒律は、スリランカの仏教徒の大半が毎日心に誓う五戒(パンチャ・シーラ)の一つになっています。アヒンサーを実践する苦行者や仏教僧はこの戒を拡大解釈し、いかなる生物をも傷つけたりすることはありません。
 政治の世界で、このアヒンサーの哲学を奉じたのがインドの偉大な指導者マハトマ・ガンジーであり、それが彼のサティヤーグラハ、つまり非暴力的抗議の実践によって具現化されたのです。
2  池田 『法華経』には、非暴力に徹して人々の心を変えていった「不軽菩薩」の行為が説かれております。この菩薩は、その名前が示すように、だれびとをも決して軽んじることなく、人々の生命に内在する仏の生命(仏性)を最大限に尊重したとしるされています。
 不軽菩薩は、直接的暴力ならびに構造的・文化的な暴力の荒れ狂う社会の中にあって、人々の生命の善性を開発しゆくために、「但行礼拝」という非暴力の手段に訴えました。結局、不軽が臨終のときに示した人格の輝きにふれて、人々の心が善心へと回転していったのです。
 私は、この不軽菩薩の行動の中に、ガンジーとも通底する、きわめて積極的な仏教者の菩薩道を見いだすのです。
3  「無明」から全ての煩悩が
 博士 釈尊が説いた個人の煩悩を克服する方法は、きわめて賢明な指導者の手助けがあれば別ですが、多数の人間がそれを成就することは、それほど容易なことではないでしょう。今日の指導者は、たいてい民主的な方法で選出されますので、民衆一人ひとりが正しい態度をとるようになり、国の運命を決定する指導者たちもそうなることが望ましいのです。ここに「正しい」態度とは、すでに議論しました仏教の〈全包括的世界観〉を意味します。
 今日の国家間の紛争は、機械論的生物学の伝統という狭い枠内でしか正当化されません。
 ダーウィン以後の生物学者たちと同じように、私たちが人間の本質は人間以外の動物と同等であるとみなすならば、「適者生存」の学説は人間集団にも無条件であてはまると考えられるかもしれません。もしそうであるならば、人種優劣説や富者による貧者の搾取、階級闘争、国家間の戦争はすべて正当化されることになります。事実、ネオ・ダーウィニズムの社会学者たちはこのような考えにもとづいて、自らすすんでヒトラーやナチズムを弁護さえしたのです。
 しかし、ここで無視されているのは、還元主義的見解を人間に適用した場合には限界があるということです。
 人類の長期的展望に関して、私は楽観的な見方をする傾向があります。人類の生存が新しい世界観にかかっていると考えられるならば、最終的にそうした新しい世界観が現れるはずである、というのが私の信念です。
 池田 仏教では、三毒などのあらゆる煩悩の根本は「無明」であると説きますが、これは、自らの生命や大自然、大宇宙の本来的なあり方、つまり、生命観や世界観に対する根本的な無知を指しています。つまり〈全包括的世界観〉に対する「無明」から、人々の世界観の限界性が生じ、偏見、差別、暴力性、貪欲などのあらゆる煩悩がわき起こると説いています。とするならば、今、人類に希求されているのは、まさしく世界観の抜本的な転換であり、それにもとづく善性の開発であるといえるでしょう。

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