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日蓮大聖人・池田大作

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五 アショーカとスリランカ  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  慈愛で乗り越える怨念
 池田 牧口初代会長の著作『人生地理学』は、一九〇三年(明治三十六年)、三十二歳で著したものですが、そこでは世界における重要な島として、ハワイ、香港などとともにスリランカを挙げています(前掲『牧口常三郎全集』第一巻)。当時から、この島の重要性に着目していたわけです。そうした意味からも私は、スリランカという「光り輝く島」「宝石の島」に対する特別の感慨があるのです。
 私は、このすばらしき島のご出身である博士に、日本人として申し上げたいことがあります。それは、第二次世界大戦の後、日本と諸国の間にサンフランシスコ講和条約が締結された際、世界の諸国は日本に対して賠償を要求しました。ところが、スリランカは条約に参加したものの賠償権を放棄したのです。
 青年時代、そのニュースに私は感動しました。そのときのスリランカ代表の声明も、胸に突きささりました。「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みをもってすることはやめよう。この精神でセイロン(スリランカ)は世界の平和に貢献したい」という内容でした。これは、「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」(『法句経』。引用は『ブッダの真理のことば感興のことば』中村元訳、岩波書店から)との精神にのっとったもので、心ある人々の大いなる共感を呼び起こしたものです。
 博士 おっしゃるとおり、怨念は怨念によってではなく、慈愛によってこそ乗り越えるべきであると、私自身も確信しております。たしかにそれは、私たちがそうありたいと努力すべき理想です。
 ただ今、サンフランシスコ講和条約の締結におけるセイロンの調停について話されましたが、これは私にとって興味深い事実です。と申しますのは、先生に深い感銘を与えたその発言をした人物こそ、だれあろう、わが親友J・R・ジャヤワルデネ前大統領であるからです。
 ジャヤワルデネ氏(人々は親しみをこめてJR〔ジェー・アール〕と呼んでいます)は私の父の学友です。私が氏と親交をもつようになったのは、一九八〇年代の初め、スリランカに基礎科学研究所を設立する件について、私が請われて氏の顧問になったときからです。氏はいうまでもなくスリランカ共和国の初代大統領です。
 JRは敬虔な仏教徒です。偉大な廉直の士であり、二十世紀の国際舞台で大いに名声を博した政治家です。今お話しになられた当時のJRは大蔵大臣で、セイロンの代表としてサンフランシスコに行っていたのです。
 ついこのあいだ、氏が私に話してくれたことですが、ソ連の代表グロムイコが戦争賠償の問題をもちだしたとき、その心は日本を分割するということですでに決まっていた。つまり、戦後のドイツが分割されたのとほぼ同じような状態にしようと考えていたというのです。ですから、JRの調停と「戦いは終わったのだ」との熱弁は、戦後の日本分割という差し迫った危険を回避するうえで重要な役割を果たしたことになります。
 このような理由から今日の日本で氏は英雄視され、最近の訪日の折には氏の顕彰碑の除幕式が行われたと聞いています。一人の人間の先見の明が一国の歴史を一変させた――これは考えるだけでもすばらしいことです。
 池田 私が先に引用した『法句経』の文は、たしかジャヤワルデネ前大統領がスピーチの中で引用されていましたね。
 博士 そのとおりです。そのスピーチのさわりは次のように述べている箇所です。
 「わがセイロンは幸いにして侵略されませんでした。しかし空襲を受けたり、東南アジア司令部傘下の大軍が駐屯したことによって、被害は蒙っております。また、わが国の主要産物の一つにゴムがありますが、連合国にとってわが国が唯一の天然ゴム産出国であったために、その樹液は無残にも採り尽くされてしまいました。この点でも被害を受けております。わが国にはこれらの損害の賠償を要求する権利があります。しかし、わが国はそれを要求するつもりはありません。なぜならば、私たちは偉大なる師の言葉、アジアの無数の民衆の生命を気高きものにしてきた教えを信じているからです。それは『怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む』との教えです。
 偉大なる師であり、仏教の創始者である釈尊のこの教えによって、ヒューマニズムの波が南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシア、そしてセイロンへと広がりました。この波はまた北へも進み、ヒマラヤ山脈を越えてチベット、中国に入り、ついには日本に至りました。このためこれら諸国の人々は数百年間、共通の文化と遺産によって結ばれてきたのです。
 この共通の文化は今なお存在しています。そのことがわかったのは、先週、この会議(=対日講和会議)に来る途中、日本に立ち寄ったときでした。国の指導者である閣僚ばかりでなく、民間の人々や僧侶たちと話していてそのことがわかりました。私の得た印象では、一般の日本人はいまでも偉大なる平和の師の影響を受けております。そしてその教えを奉ずることを願っています。私たちは、その機会を彼らに与えてあげなければなりません」(一九五一年九月六日のJ・R・ジャヤワルデネのスピーチから引用)
2  慈悲の宗教の無限の力
 池田 スリランカの歴史で、他国を侵略したことは一度もありません。それだけ〈平和〉を愛し、尊んでいる国だと思います。世界には大きな力をもった国、豊かな国はありますが、平和な国、寛大な国こそ偉大です。これは仏教が伝来した国スリランカの伝統ともなっているのではないでしょうか。
 博士 ええ。そのとおりだと思います。スリランカには仏教のさまざまな伝統が深く浸透しています。そこに住んでいるかぎり、仏教の影響を免れるわけにはいきません。島にはこのうえなく美しい新旧の寺院が数多くあり、仏教二千年の歴史が文字どおり国中にしみわたっています。
 仏教は穏やかさと慈悲を特徴とする宗教です。スリランカに住んでみると、この島そのものが、そうした仏教の特性を反映していることを実感せざるをえません。気候は概して変化が少なく穏やかですし、緑におおわれた快適な風景は心をなごませてくれます。
 ポロンナルワやアヌラーダプラの広々とした大平原の真ん中に巨大な釈迦仏の石像が立っていますが、いつ見ても私は深い感動を覚えます。そうした彫像のなだらかな輪郭を眺めれば、仏教という慈悲の宗教のはかり知れない力を直ちに実感できます。それらの仏像は現代的な風景を睥睨していますが、仏教もちょうどそのように島の歴史の中で主役を演じてきたのです。
 『マハーヴァンサ』によりますと、スリランカの歴史は、紀元前六世紀に北インドからヴィジャヤがやって来たときに始まります。
 ヴィジャヤが七百人の部下とともに来島したのは、ちょうど偉大な釈尊が入滅したころだといわれています。釈尊はその来島のことを入滅の直前に察知し、ヴィジャヤにインドラ神(帝釈天)の加護あれかしと祈ったともいわれ、また、ヴィジャヤの着いた島はダンマドヴィーパとなるであろう、と述べたと伝えられています。ダンマドヴィーパとは、仏教が生々世々変わることなく護持される島という意味です。これは寓意的な物語かもしれませんが、スリランカで仏教がほとんど変わることなく保持されてきたことはまぎれもない事実です。
 池田 仏教の平和思想、寛容性、普遍性を政治に体現した指導者として、インドのアショーカが有名ですが、アショーカは、息子のマヒンダを〈平和の使節〉として、スリランカに派遣したといわれています。また、アショーカの娘(マヒンダの妹)もスリランカを訪れ、釈尊成道の地の菩提樹を移植したと伝えられています。
 博士 歴史的にみて、ヴィジャヤの来島に次ぐ重要な出来事は、まさしく紀元前三世紀にインドのアショーカ王の子息マヒンダがやってきたことです。
 王子は有名なミヒンタレ岩の頂上で「万人に及ぶ慈悲」について説教をしました。聞き手はスリランカの王であるデーヴァーナンピヤティッサです。この歴史的な出来事から数年のうちに、国全体が仏教に帰依したといわれています。
 そして、ただ今話されたように、その後まもなくして、アショーカの息女サンガミッターもスリランカにやってきます。そのとき王女の手には、釈尊が悟りを得た場所に生えている菩提樹から取ってきた一本の枝がありました。この枝は、アヌラーダプラに植樹されました。今でもこの木は堂々と茂っており、スリランカの仏教徒に崇められています。
 池田 一九八五年三月、貴国のE・L・B・フルーレ文化大臣とお会いしました。その折に大臣から、その由緒ある菩提樹の葉をいただきました。
 博士 それはまことに興味深いお話です。スリランカの仏教徒がその葉をもらったなら、このうえもなく神聖なものとして秘蔵することでしょう。ついでに申し上げますと、この菩提樹は現在知られているかぎりでは世界一高齢の木だということです。スリランカの重要な国定史跡の一つになっています。
 子供のころにアヌラーダプラにあるその史跡をたずねた私は、仏教の及ぼしてきた偉大な影響を知って、畏敬と驚異の念で胸がいっぱいになったことを覚えています。
3  仏教の伝統と風習に生きる
 池田 マヒンダによって仏教がもたらされて以後のスリランカの仏教史で、とくに特徴的なことは何でしょうか。
 博士 デーヴァーナンピヤティッサ王以降、シンハラ朝代々の王はアヌラーダプラに寺院を建立し、仏教の流布を助長しました。また、インドのチョーラ人の王たちによる数度の侵略も、首尾よく食いとめることができました。当時建てられた寺院の多くは今でも存在しています。
 アヌラーダプラは、西暦一〇一七年までずっと仏教国スリランカの首都でした。その後、ほんのわずかの間、この北部の州はチョーラ帝国に併合されました。チョーラ人統治者たちはアヌラーダプラを捨て、首都をポロンナルワに移しました。
 約五十三年後に、チョーラ人たちはヴィジャヤ・バーフ一世によって追い出されましたが、後を継いだシンハラ朝の王たちは引きつづきポロンナルワを首都としました。それから百年もたたないうちにポロンナルワはどんどん発展し、多くの寺院や王宮をもつ二番目の首都となったのです。
 島史のなかで注目すべき重要な部分は、一一五三年から一一八六年にいたるパラクラマ・バーフ一世の治世です。この時代には数々の荘厳な芸術作品や彫刻が人々の依頼に応じてつくられました。また、さまざまな大規模な工事も行われました。なかでもパラクラマ・サムドラと呼ばれる巨大な人工貯水池がつくられたために、周囲数百平方マイルにわたって潅漑できるようになったのです。
 スリランカ史のなかでめざましい点は、南インドのヒンズー教徒が次から次へと押し寄せて来たにもかかわらず、仏教を征服することはできなかったということです。シンハラ朝の王たちはいずれも、自分は仏教の保護者であると自負していました。しかし結局、シンハラ朝はヒンズー教徒の度かさなる侵略から仏教を守るためにポロンナルワを放棄し、一五九一年、ついに仏教の中心をキャンディに移しました。
 その後、島はポルトガル、オランダ、イギリスに次々と征服されましたが、仏教はここキャンディでおおむね安泰に守られてきたのです。キャンディの仏歯寺(釈尊の遺骨の歯が納められている)は、今でも仏教徒の重要な霊地となっています。
 池田 歴史の概要がよくわかりました。今も伝統や風習が多く残っていますね。
 博士 そのとおりです。
 大統領は自ら「ブッダサーサナ大臣」と名乗っていますが、これは仏教の育成・支援という任務を自ら引き受けたということを意味します。
 重要な国家行事においてはかならずパリッタが朗誦され、これにともなう一連の仏教儀礼(ピリット儀礼)が執り行われます。ラジオやテレビの朝の番組も同様に、まずパリッタの朗誦で始まります。
 個人の生活においても仏教の儀礼・式典が重視されます。なにか重要な出来事があるとき、たとえば新しい家への引っ越しとか、亡くなった親族の法要の際には、儀式が行われて僧侶たちが終夜パリッタを朗誦します。私はそうした儀式を今でもまざまざと思い起こします。それほど深い感銘を受けたのです。
 スリランカでは、満月の日(ボヤの日)に信心深い仏教徒は寺院へ行ってお祈りをし、聖堂に香や花を供えます。ウェーサカの月の満月の夜は、街路や家々のまわりに飾られたオイル・ランプやランタンの照明で全島が燃えるように輝きます。こうして釈尊の誕生・成道・入滅を祝うのです。

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