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日蓮大聖人・池田大作

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二「賢者の論」による対話(2)  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  対話で広まった仏教
 博士 今うかがいましたミリンダとナーガセーナの対話は、たしかに現代における「東洋」と「西洋」の対話の模範になりうるものです。
 私の言う「東洋」とは、日本も含めて、仏教思想が主流を占めるすべての国々をさします。また「西洋」とは、一応、キリスト教国とされている西側先進工業世界のすべての国を意味します。
 ミリンダとナーガセーナの邂逅のときのように、東西の対話も物質主義的な価値観の妥当性と重要性について両者がまったく相反する見解をもっているという場面から始めるのもよいでしょう。
 物質主義的な方法論の欠陥やデカルト流の還元主義的世界観の不完全さについては、私たちの対話ですでに論じてきたように、西洋人に理解させるのはそれほどむずかしくはないでしょう。しかし、東西対話の重要な前提条件は、ナーガセーナが「王者の論」ではなく「賢者の論」をミリンダに要求したのと同じく、西洋人に、現在の権力や権威をともなう地位にこだわらず対話にのぞむことを確約させることです。もし西洋が世界の経済力を今後も独占するならば、この東西対話の成功への前提条件を満たすことは困難でしょう。
 しかし、日本は、経済の分野で急速に指導的役割を担いつつあります。この事実があるので、私は東西を結ぶ〈精神のシルクロード〉が本当に構築されるであろうと楽観視しています。
 日本が経済大国であるということは、現在の世界における最重要の事実の一つです。多くの人々が日本製のテレビを買っているのと同じように、西洋の人間は、いつかは仏教を初めとする東洋思想を、優れた製品として〈購入〉するかもしれません。
 もし日本の物質主義的な世界観にもとづく貿易ルートを使って、明らかに非物質主義的な哲学を伝えることに実際に成功したならば、それは皮肉なことというべきでしょう。
 池田 日本の経済成長が東と西の「賢者の論」による対話のベースを築きあげているとの博士のご指摘は、日本人として深く認識しなければならない課題であると思います。
 博士が言われるように、日本の仏教への関心も強まってきました。たとえば、私が今対談しているフランスの社会科学高等学院のセルジュ・コルム教授は、日本の今日の経済発展の背景に、仏教の精神的土壌が存在したのではないかと考えている、と語っておりました。そして、SGIは「自らの本来の姿、信念を失うことなく、同時に世界に開かれたオープンな『対話』を行いながら、文化的広がりを実現している」とも述べておりました。
 周知のとおり、仏教は武力や暴力などの反平和的手段に訴えることなく、あくまでも「対話」によって広まった宗教です。これは、キリスト教やイスラム教の歴史とは異なる、仏教のきわ立った特徴の一つといえるでしょう。シルヴァン・レヴィは「仏教はかつて暴力を用いることなく、また武器を擬せられることもなく、世界の諸地域を手中におさめえた名誉について、これを公言しても間違ってはいまい」(『仏教人文主義』山田龍城訳、人間の科学社)と述べています。
 たしかに仏教二千数百年の歴史の中で、自らが原因となって引き起こした戦争は一度もなかったといってよい。釈尊は、一貫して人間の精神的・倫理的な力を重視し、強権によらない社会変革をめざしたのです。いわゆる〈宗教戦争〉や〈聖戦〉は起こしておりません。
 博士 仏教において対話が重視されることは、古代ギリシャ時代の哲学的対話の場合と著しく類似しています。上座部仏教の多くの教説は、師と弟子たちとの対話をとおして説かれていますが、後に日本で発展した日蓮大聖人の仏法についても同じことがいえると思います。対話を重視する仏教の伝統は、独白や説法という形の付加的要素はあるものの、ソクラテス式対話の伝統に似ていなくもありません。
 池田 そのとおりです。日蓮大聖人の最重要の著作の一つに「立正安国論」がありますが、そこでは国土の現状を憂える政治家を客として、日蓮大聖人御自身である仏教者の主人が対話を繰り返します。そして最後には、主人の深い仏法の知見に客が納得し、感動するプロセスが説かれております。
 また「聖愚問答抄」という著作でも、仏教を知らない人に対して、仏教者が宇宙と生命の真理を説き明かしていく形式がとられています。日蓮大聖人の御生涯そのものが、一つの次元からいえば「賢者の論」による「王者の論」との戦いであった、と私はみております。
 博士 アヒンサー(非暴力)は、もちろん仏教の不可欠の要素です。したがって、この宗教が総体的にみて、戦争を行わずに(=世界の諸地域に)流布したというすばらしい記録をもっていることは、それほど驚くべきことではないでしょう。
 しかし、仏教では〈貪欲〉を滅しようとつとめますが、〈貪欲〉は生来人間にそなわる欠点ですから、二千五百年の仏教史の中で、戦争状態におちいったことが当然何度かあったはずです。
 事実、紀元前四八三年の釈尊の死後一世紀半のことについては、記録はほとんど残っていないようですが、いくつかの仏教帝国が拡大する過程で戦争が起きたとしてもおかしくはないでしょう。仏教徒であった偉大な王アショーカでさえ、ベンガル湾沿岸のカリンガ国を併合するために激しい戦争を行いました。その後、王は戦争を放棄し、古今を通じて世界一の平和主義者になったのです。
 しかし、これはまったくの憶測になりますけれども、なんの記録も残っていないということは、たとえ戦争があったとしても、それほど残虐な行為や苦難をともなうものでなかったことを意味しているのではないでしょうか。実際、もし仏教流布のために血みどろの苦しい戦いが行われたとすれば、それはどうも仏教らしくないということになるでしょう。
 これは、仏教に示唆される〈全包括的世界観〉の必然的結果であると思います。〈普遍的愛〉はまさにこのことを意味するのであり、その愛はあらゆる生命に及ぶのです。
 池田 仏教にとって対決すべき相手は、人間の生命をくもらせ、ゆがめ、衰弱化させている貪欲・瞋り等の煩悩であって、決して異教徒ではありません。どのような民族であれ、人種であれ、人間として共通に受けている根源的な苦悩の本質を解明し、仏性という永遠なる宇宙生命を開覚させゆくところに、仏教流布の目的があります。
 そのために仏教がもっていた最大の武器は、人間の〈魂〉に語りかけていく対話であり、身のうちふるえるような宗教的感情をわきたたせていく絵画や彫刻などの芸術・文化の力でありました。こうした仏教の平和的な側面は、キリスト教やイスラム教と対比したとき、より鮮明に特徴づけられると思うのです。
2  進歩に背く宗教を警戒
 博士 そこで、うかがいたいのですが、主な世界宗教はそれぞれ独特の文化の中で、また異なった時代に生まれました。したがって、それらの信仰教義には大きな相違があります。宗教的信条には還元主義的方法による分析を施すことはできませんので、概してそれを試験してみることは不可能です。一群の信条を客観的な面においてみると、他のものより優れているとか劣っていると考えることはできません。
 異なる宗教の信仰者は、多くの基本的問題についてしばしば相違する信念をもっています。そして、このような信念が強い熱情をもって保持され擁護されるときは、いつでも争いが必然的に起こっています。宗教的相違が歴史上、ごく近年においても多くの戦争をもたらしてきました。
 宗教の不寛容は、私たちが西暦二〇〇〇年に近づくにつれて、ふたたびその醜い頭をもたげてきており、一つの大きな問題となり始めています。人間には自由意思で宗教を選び奉じる権利がある、という考えを私たちが容認するならば、宗教的イデオロギーの衝突が残虐な戦争へと発展するのを、どのようにして私たちは防ぐことができるのか、ということです。
 池田 博士と同じ危惧を、アメリカの未来学者アルビン・トフラーもその著書『パワーシフト』(徳山二郎訳、フジテレビ出版)の中で表明しています。トフラーは、人類を「新暗黒時代」へと押し流しかねない巨大な勢力の一つとして、「聖なる狂信」を挙げています。この「聖なる狂信」とは、具体的にはイスラム教国やキリスト教国を中心に広く見られる、世俗化社会に敵意をいだくファンダメンタリズムを指しています。
 私は、世俗化して〈永遠なるもの〉を見失い、道徳性を喪失しゆく社会にあって、個人が自由意思で〈賢なるもの〉を志向して魂の渇きをいやそうとするのは、ある意味では当然のことと考えています。
 しかし、時代や社会の進歩に背を向ける宗教、あるいは背を向けようとする宗教固有の傾向性に対して、厳重な警戒を怠ってはならないと思います。
 世界の潮流はまさしく暴力から非暴力へ、不信から信頼へ、力の対立から対話の時代へと向かっています。
 このような世界の民意の流れに反する傾向性、一種のドグマに対しては、いかなる文化的土壌から生まれた宗教的信念であっても、私は、人類存続の立場から断固として反対すべきであると思います。宗教は人間のためにあるのであって、断じてその反対ではないからです。
 それゆえに私は、民衆レベルにおいても、首脳レベルにおいても、慈悲と寛容に根ざした「対話」――まさしく「賢者の論」による対話の活性化を主張したいのです。各自の思想・信念をもつ人々によって、互いに解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされる「賢者の論」による対話――それでも論者が決して怒ることのない忍耐強い対話こそ、宗教の「寛容性」を醸成していく基礎ではないでしょうか。
 私は、対話、言論、そして文化の相互尊敬にもとづく交流は、人間が人間であることの誇るべき証であると信じています。プラトンが『パイドン』(田中美知太郎編集、池田美恵訳、『世界の名著6プラトンⅠ』中央公論社に所収)の中で言っているように、「言論嫌い」は「人間嫌い」に通じ、対話や言論の放棄は人間の放棄に通じてしまいます。人間であることを放棄すれば、仏教が洞察したごとく、暴力性・獣性が噴出してきます。その獣性が、宗教的イデオロギーや大義名分のドグマの仮面をかぶって、暴力や武力で人間を抹殺してきたことは、先ほど博士が述べられたとおりです。対話、言論、交流を基軸にした人間性による獣性の克服、非暴力による暴力性の超克にこそ、人類の生存を確保する方向性がありましょう。
3  教育による英知の光源
 次に、私は長期的視野から見て、教育の役割を重視したいと思います。教育学者の米国デラウェア大学のD・L・ノートン教授、同じくインタナショナル大学のD・M・ベセル教授と懇談した(=一九九〇年八月十五日)折に意見の一致をみたのが、博士も指摘された宗教のもつ危険な傾向です。
 私はそのとき、次のような意見を述べました。「教育が開く英知の世界がなければ、宗教・信仰は盲信になっていく危険性があり、逆に教育による英知の光源をもてば、宗教による精神性はさらに光を放つでしょう」。この意見に対して、両教授とも賛意を示され、ベセル教授は、教育と宗教の両方があってこそ、人間は「永遠なるビジョンの〈目〉をもつことができる」との見解を示されていました。
 ここにいう教育とは、人間としての知的・精神的営為全般を指しています。宗教は、人間の精神的営為と相補的関係にあり、また、人類の精神的果実を育てゆく土壌でもあります。このような教育のあり方もまた、「賢者の論」の精神にもとづいていることはいうまでもありません。そうであってこそ、民衆の間に宗教の不寛容性や反人間的ドグマを批判する精神を育み、非暴力、慈悲、寛容に立脚した〈民意の時代〉の到来をもたらすであろうと確信しています。

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