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日蓮大聖人・池田大作

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一「賢者の論」による対話(1)  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  王ミリンダと僧ナーガセーナ
 博士 この章のテーマは〈仏教の平和思想〉ですが、池田会長は現代の重要な諸問題について世界の識者と幅広く対談をつづけられています。その中で、おそらく最も有名なのが歴史学者アーノルド・トインビーとの対談でしょう。私も味わい深く読ませていただきました。そして、鋭敏で批判的な精神をもったお二人が互いに影響し合っている様子を実感いたしました。
 私たちはこのような対談によって、プラトンの『対話編』を彷彿させるようなやり方で、世界の本質に関するなんらかの客観的な〈真理〉に近づくことができるのではないでしょうか。
 解説の技法というか、文学の形式としての対談について、どのようにお考えでしょうか。
 池田 私が、世界の知性を代表する方々との対談集を一つまた一つと語り残しているのは、そこに開示されゆく〈真理〉が、時間と空間を超えて魂をゆさぶり、常に時代の先端に新しい示唆を与えつづけることが可能であると考えるからです。
 ソクラテスにとって、対話とは魂をゆだねて、それを裸にして眺める作業であったといわれていますが、私は、博士との対話・交流によって、真摯に世界と人間にとっての〈真理〉を見つめていきたいと願っております。
 そこで、私が仏法者として想起するのは、紀元前二世紀後半に西北インドを治めていたギリシャ人の王ミリンダと、仏教僧ナーガセーナとの〈対話〉です。二人のいわば「対談集」は『ミリンダ王問経(ミリンダ・パンハ)』として、パーリ語および漢語で保存されてきましたが、今世紀に入って英語・ドイツ語・フランス語にも翻訳されています。
 ちなみにパーリ語の仏典は、スリランカで編纂され保存されてきました。ネパールの梵語仏典、中国の漢訳仏典とともに、スリランカのパーリ語仏典が世界の近代仏教学の興隆に大きく貢献したことは、いくら強調してもしすぎることはないでしょう。
 このプラトンの『対話編』を連想させる『ミリンダ・パンハ』では、東洋と西洋の思想的出合いが劇的に展開されており、きわめて興味深いものがあります。
 さて、ギリシャ的な教養を身につけた名君ミリンダは、個人の存在を実体的にとらえる「有」の思想から論を立てます。それに対してナーガセーナは、仏教の「無我」の思想から個人の存在についての実体観を否定していきます。ここにいう「無我」の「我」とは、アートマンとしての実体のことです。
 こうして、思想的には西洋的理性と東洋的英知が出合うところから始まった対話ですが、最終的には、互いに正しく語り合ったこと、すなわち「我」を立てて話し合わなかったことをともに喜ぶという、感動的な場面で結ばれています。
 一般的にいって、ミリンダとナーガセーナの対話は、ギリシャ精神や文化の底流にある「有」の思想と、仏教の「無」の思想との対論としてとらえられているようです。
 しかし私は、ナーガセーナがミリンダに開示した仏教思想とは、「有」と「無」を止揚した「縁起」「空」すなわち「生命」の思想であったとみております。
 もとより、歴史的にいえば、こうしたギリシャ思想との出合いを契機として、部派仏教のアビダルマ(法の研究)の体系が形成されていくわけですから、ナーガセーナが展開した教理は表面的には部派仏教の「無我」思想であったわけですが、そこにはすでに、大乗仏教で開示される「縁起」「空」の思想に移りゆく迫力を内在させていたように思われるのです。
 博士 今のご意見は妥当なものといえます。というのは、ミリンダがインドのいくつかの地方を統治していた時期は紀元前一五五年から一三〇年であり、これはおそらく、大乗仏教がようやく興隆し始めた時期にあたるからです。ナーガセーナはこのような時代の流れに影響を受けており、その結果として「縁起」「空」などの思想が対論の中に出てきたのだ、と考えても不自然ではありません。
 また、私自身がこの対論において重要だと考えるのは、ミリンダの版図がインドの広範な部分に及んでいたことはたしかですが、彼自身はなによりもまず、古典期アテナイの伝統を受け継ぐギリシャ人の王であったという事実です。ナーガセーナのほうは、釈尊とアショーカの仏教を守る立場にありました。この対論が意味するところは、世界史に現れた最も偉大な哲学のうちの二つがぶつかり合ったということです。
 対論の冒頭に見られるミリンダとナーガセーナの衝突は、哲学的な相違を象徴していると思います。そして、対話が進むにつれて一致点が明らかになってきたと伝えられていますが、これは理性的に行われる議論のもつ力を象徴していると思います。
 池田 ナーガセーナは仏教の視点から理路整然と議論を展開し、ミリンダはそれに対して心から納得の情を示し、仏教に帰依しました。その証として、ミリンダは自分の名を冠した寺院を建立し、さらに自分が奉納した由来を刻んだ仏骨の壷を残すのです。
2  「王者の論」は拒否
 博士 歴史家は、きわめて広大な地域に及んだミリンダの統治の詳細について、ほとんど知識をもっていません。彼が仏教に改宗したことにより、その統治がアショーカの場合と同じように、はたして人間的で慈愛に満ちたものになったであろうか、と考えてみるのも興味深いことです。考古学的資料としてのミリンダの貨幣――ほとんどが銀貨と銅貨――の存在は、この時代が大きく繁栄し、商業が活発であったことを示していると思われます。
 池田 ここで私が注目したいのは、博士の言われる解説の技法、また文学の形式としての対話のあり方です。宇宙と人間生命の真理を洞察し、それを解説するための技法としての対話のあり方を、ナーガセーナは「賢者の論」として述べました。
 対論を始めるにあたって、彼は次のように述べたことがしるされています。「大王よ、もしもあなたが賢者の論を以って対論なさるのであるならば、わたしはあなたと対論するでしょう。しかし、〈大王よ〉、もしもあなたが王者の論を以って対論なさるのであるならば、わたしはあなたと対論しないでしょう」(『ミリンダ王の問い』1中村元、早島鏡正訳、平凡社。以下同)と。
 そこで、王は「賢者の論」と「王者の論」との違いを問います。すると、ナーガセーナは「賢者の対論においては解明がなされ、解説がなされ、批判がなされ、修正がなされ、区別がなされ、細かな区別がなされるけれども、賢者はそれによって怒ることがありません。大王よ、賢者は実にこのように対論するのです。(中略)大王よ、しかるに、実にもろもろの王者は対論において、一つの事のみを主張する。もしその事に従わないものがあるならば、『この者に罰を加えよ』といって、その者に対する処罰を命令する。大王よ、実にもろもろの王者はこのように対論するのです」と答えています。
 ミリンダは、ナーガセーナのことばをよく理解し、「尊者よ、わたくしは賢者の論を以って対論しましょう。王者の論を以っては対論しますまい。尊者は安心し、うちとけて対論なさい」と述べております。
 こうして二人の間に、あらゆる問題についての有益な対話が始まりました。「賢者の論」という言葉に、理性的で実り多い対話を成りたたせる基本が示されています。それは、平等で自由な対話を根本としてきた、釈尊以来の仏教者の姿勢でもありました。つまり、真理の追求のために喜んで解明につとめ、批判・修正に対して公正かつ寛大であり、互いの「魂をゆだねて」対話をするのです。
 「賢者の論」による対話こそ、現代社会をおおっている種々の難問を解決するための理想的な対話のあり方を示すものではないでしょうか。

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