Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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六 人類共同体意識と天文学の使命  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  エゴイズムという病
 池田 「あらゆる人々の心臓に一本の矢が突きささっている」(『スッタ・ニパータ』九三八、荒牧典俊訳、『原始仏典七ブッダの詩Ⅰ』講談社)――硬直し疲弊しきった古代ヴェーダ文化のもとで、戦乱、闘争、論争に明け暮れていた当時のインド社会の本質を見抜いた釈尊の言葉です。
 釈尊の言う「一本の矢」とは、欲望の業火を燃えさからせた自我意識を意味しています。人々の心臓に深く突き刺さったエゴイズムという矢を抜きとる以外に、この苦悩に満ちた人間世界の危機を転換する根源的な方途はない、と釈尊はみたのです。今日、西洋科学技術文明が直面している危機の本質の根底にも、やはり、欲望に突き動かされるエゴイズムという「一本の矢」を認めないわけにはいきません。
 東洋の仏教精神を鏡として映しだされた西洋人の自画像を、アーノルド・J・トインビー博士は「あくの強い西洋精神」「西欧人の、落ちつきのない魂」(『アジア高原の旅』黒沢英二訳、毎日新聞社)等と表現しております。そして「あくの強い」「落ちつきのない」西洋的自我の〈解毒剤〉として、仏教に大いなる期待を寄せておりました。
 フランスのセルジュ・コルム博士は「近代人は自我という病気にかかっている。その社会はまず、それぞれの『自我』に苦しんでいる。エゴというのがその病の名前である」「この個人というものが本当のところ何であるか、この病気から逃れるために、その正確な原因が何であるかを分析することである。そして、それがまさに仏教の主眼となるものである」と指摘し、「仏教というのは、人間を解放することの到達点である」と述べていました。
 博士 エゴイズム克服の戦いがなされなければ、重大な結果を招くことになるでしょう。個人のエゴイズム(個人的利己心)は、より大きな社会集団にも同様の現象を引き起こします。つまり、部族中心主義や人種差別、最もいまわしい形態のナショナリズムです。
 当世流の価値観は、全人類にかかわるグローバルな問題の検討をいっさい度外視して、自分個人のため、自分と同じ人種のため、自分たちの国家のためにできるだけ多くのものを収奪せよ、というものです。当然の帰結として、猜疑心を生み、対立を招き、極端な場合は戦争という事態にもなりましょう。
 今日、世界の多くの国々が紛争にはまりこんでいますが、まさに私たちが論じている理由からそうなっていることがわかります。こうした緊張状態は、その根本的原因を認識し除去したときに初めて緩和することができるものです。
2  〈世界共同体〉の形成
 池田 個人の深層のエゴイズムの克服と同時に、社会集団のもつエゴイズム――部族中心主義、人種差別、偏狭なナショナリズムなど――を乗り越えていかなければならない、とのご指摘にまったく同感です。そのような各次元の集団に巣くうエゴイズムを克服し、普遍的な人類意識の上に立った〈世界共同体〉ともいうべき理想を実現していかなければならないでしょう。
 博士 〈世界共同体〉という理想は、たしかに最優先で追求するだけの価値があります。エゴイズムを根絶し、それに替えて人類全体の福利に対する深い真摯な関心をもたなければならないと思います。
 太古の社会では、構成員同士の相互依存は、おそらく数家族からなる小さな単位の枠内に限定されていました。そのころは種族への忠誠心が人間の役に立ったのです。今日では、世界の全人口が相互依存度をますます強めています。すでにいずれの国であれ、一国の福利は地球のさいはてに住む人々の運命と密接に結びついている、と考えなければならないところまできているのです。〈世界共同体〉という視点の出現は、私の考えでは当然のことです。そして、それはまた、私たちの生存にとっても必要であるかもしれません。
 池田 アンリ・ベルクソンは、「閉じた社会」をグローバルな「開いた社会」に転じていくには、国家や民族から人類へといった「対象の順次的拡大」に照応する「感情の累進的膨張」によっては不可能であり、その社会を構成する人々の「閉じた魂」から「開いた魂」への質的飛躍がなされなければならないと述べ、そのための不可欠の契機として「動的宗教」について言及しています。(『道徳と宗教の二つの源泉』『世界の名著53ベルクソン』澤瀉久敬編集、森口美都男訳、中央公論社)
 〈世界共同体〉を形成しゆくには、〈世界市民〉の心が常に外に向かって開かれていなければならず、そのためには、各人のアイデンティティーの基底に魂の解放をうながす宗教的契機が要請されることを、私は一貫して訴えつづけてきました。
 世界連邦主義者として有名なノーマン・カズンズ氏と会ったとき、氏は国家主権を、軍事主権を中核とする「絶対主権」と、社会活動の管轄権としての「相対主権」とに分類し、「絶対主権」を解消すべきことを主張していました。
 私も、国家主権の悪しき側面としての軍事力の発動を制限し、〈世界不戦〉への潮流を形成しゆくことが必要であり、その道こそ〈世界共同体〉への大いなる歩みであると考えています。
 しかし、この道を着実に進みゆくには、国家の枠を超えた〈世界市民〉としての意識の育成が不可欠なのです。〈世界共同体〉を支える意識――それは、個人から民族・国家・地域主義にもとづくエゴイズムを乗り越えた〈人類共同体意識〉と呼ぶことができるでしょう。
 この〈人類共同体意識〉という人類の心の深層にある〈魂〉の源泉から、〈世界共同体〉の形成を可能にする包括的世界観、人間主義的価値観、基本的人権の思想がわき出てくるのではないでしょうか。そして、仏教は人間内奥の〈内なるコスモス〉を開示することによって、〈人類共同体意識〉を確立しゆく宗教的・倫理的基盤として貢献しうると考えております。
3  共通の目的にめざめさせる宇宙
 博士 私は、エゴイズムという疫病を取り除く方法は一つにとどまらないのではないかと思います。池田先生が提言された仏教教義の信奉による方法もその一つです。仏教は私たち人間の個々の存在を宇宙的な観点でとらえる優れた思想をそなえています。
 エゴイズム克服のもう一つの方法としては、地質学や天文学上の事実を教育することも当然考えられます。四十五億年にわたる地球の歴史の中で、私たち人類(ホモ・サピエンス)の歴史はわずか九万年にすぎないことも忘れてはなりません。このことを本当に肌で理解したときに、エゴイストはエゴイストのままでいられるでしょうか。私は変わると思います。
 数十億光年の広がりをもつ途方もなく広大な宇宙、そのなかに存在する何十億、何百億もの恒星、必ずあるにちがいない生物の生息する膨大な数の惑星、宇宙に遍満する生命の基本的構成要素――これらの事実に深く思いをめぐらすことは、すべて厳粛なる教育的経験となるにちがいありません。
 池田 同感です。
 博士 また、人類の文明史全体が宇宙内の出来事によって支配されてきたとする見解があり、それを裏づける証拠もあります。
 たとえば約一万五千年前に、地球軌道と交差する軌道をもった巨大な彗星が破壊されて、何十億という破片に分裂したことがわかっていますが、それからというもの、千六百年ごとにその破片が激しい流星雨となって地球をおそっています。
 そのなかで最初の流星雨は、ほぼ一万年前に最後の氷河時代に終わりをもたらしました。そのころできあがり始めていた集落は、ときどき隕石の落下によって破壊されました。これこそ、古代の人々が不吉の徴候として彗星を恐れるようになった理由なのです。最近(一九九〇年)のことですが、ウィリアム・ネーピアとビクター・クルーブが共著『宇宙の冬』の中で、そうした説をくわしく述べています。
 冷厳なる事実は、人間は自己の運命をまったく自由に変えることができるわけではない、ということです。今日までの歴史は、地球外からのさまざまな衝撃によって区切りをつけられてきたように思われます。フレッド・ホイルと私の推測によれば、エジプトの一王朝の終焉、ユダヤ教の発生、ヨーロッパにおける暗黒時代の開幕等は、すべて隕石の落下と関係があります。
 現在は、私どもが考えている隕石落下周期のなかで、落下の可能性が最も少ない時期にあたっています。それでもツングースカの隕石落下のような事件が起きているのです。一九〇八年、シベリア中部に衝突したこの隕石は、数千平方キロにわたって樹木をなぎ倒しました。この珍事は、隕石や彗星の衝突する危険がなくなったわけではないことを、改めて私たちに思い出させてくれます。
 最近、天文学者たちはスイフト・タットル彗星をふたたび見つけ、西暦二一二六年八月には地球と衝突する距離にまで接近するという予測をたてました。計算はまだ不確実であり、大多数の科学者は今のところ、彗星はわずかの差で地球と衝突しないだろうと考えていますが、はっきりしたことはわかりません。この発見により、他の物体の地球に衝突する可能性が注目されるようになりました。
 興味深いのは、アメリカの航空宇宙局(NASA)が、宇宙から飛来する小さな物体を発見し、地球にぶつかる前にそれを破壊するという計画に、五十万ドルの予算を用意していることです。
 これだけにとどまらず、もっといろいろな意味において、私たちは広大な宇宙とつながりをもった生き物なのであり、いまでも宇宙で発生する大事件から影響を受けています。たぶん私たちの身近な環境や伝染病の流行、生命の進化も、地球の外にあるさまざまな要因によって左右されるのです。
 池田 宇宙には〈ロマン〉があり、〈永遠〉があり、広大なる〈生命〉の広がりがあります。そして宇宙は、その神秘を探ろうとする人間の英知の世界でもあります。
 宇宙を思うとき人間の境涯は無限に広がり、そこに、かけがえのない地球と人類への慈愛の念も触発されてきます。また宇宙の子供であり、小宇宙である人間としての自覚も深まっていきます。人類が地球の歴史に思いをはせ、さらに広大なる天空を見上げて生きれば、心のせまい争いの愚かさと平和の大切さに気づくにちがいありません。荘厳なる〈永遠〉を仰いで進めば、小さなエゴの対立などあまりにもむなしいことが理解されるでしょう。
 その意味でも、天文学と宇宙探求は、人類を共通の目的に向けてめざめさせる崇高な教育的役割を担っているのではないでしょうか。
 博士 天文学は、人類を共通の目的に向かわせるための世界観を形成する余地を与えているという点で、科学のなかでも類例のないものです。
 人間は外的世界を探検したいという基本的な衝動を常に感じており、これに応えて自然に発達したのが天文学であるといってよいでしょう。この天文学の沿革をたどってみると、それが世界中のさまざまな文化に深く根づいていることがわかります。最も初歩的な段階の天文学は、文明そのものの始まりにまでさかのぼらなければなりませんが、それがある程度、複雑化し始めたのは紀元前七千年ころです。つまり、それまでの狩猟・採集生活から農耕中心の生活に移行したころのことです。
 天空を研究することによって原始人は、たとえば四季のような天文学上の現象に明るくなりました。その結果、農耕を計画的に行ったり、また生活全般にわたってその水準を高めたりすることができるようになったのです。
 天文学はまた、航海においてもきわめて重要な役割を果たしました。おかげで私たちの祖先は海をわたり、地球のそれまで知られていなかった地域を探検することができたのです。
 池田 天文学は古代中国やバビロニア、エジプト、インドなどの農業国家で発生しています。中国では、紀元前十四世紀の殷の時代から暦法を中心に発達してきたとされており、また紀元前七世紀ころから日食の日付を書いた記録も残っています。
 博士 天文学史を一見しただけで、この研究が実に世界各地で行われてきたことがわかります。チグリス、ユーフラテス両川の間の平原に住んでいたメソポタミアの人々は、ニネベが滅ぼされた紀元前六一二年に至る幾世紀もの間に、古くからのきわめて優れた天文学の伝統をつくりあげていました。彼らは星座や惑星を詳細に観測し、その結果を粘土の平板に記録しました。これらの記録は今日の天文学者にとっても興味深いものです。
 そのほかの古代世界の国々も、天文学思想の発展にすばらしい貢献をしました。これにはマヤ族、ギリシャ、インド、中国などが含まれます。天文学はそもそもの出発点から、一国や一民族の境界内に閉じこめることのできない学問であった、ということがわかります。まことに国境を超えたものであり、また今後とも常にそうでなければなりません。
 ニュートンの時代から第二次世界大戦終結までの間にみられる天文学の進歩発展のなかで、その主なものはほとんど例外なく西欧と北米の諸国によるものです。一九四五年以降、ソ連、日本、オーストラリアが、少し遅れてインドと中国が頭角を現し、天文学の研究に本気で取り組んでいる国々の仲間入りをするようになりました。
 現代世界では物質主義的な考え方がますますはばをきかせています。ですから、よく次のように尋ねられます。「なぜ天文学をやっているのか」「天文学はいったいなんの役に立つのか」と。二番目の質問に対しては「なんの役にも立たなくて申し訳ない」と答えることになっています。
 しかし、こうした返答は基本的には間違っています。もちろん食糧とか衣類、エネルギーの生産を増大するという意味では、天文学は直接の役には立ちません。しかし、もっと大事な貢献があります。天文学は人間の文化的遺産の一部として欠くことのできないものであり、それゆえに尊重され維持されなければならないのです。
 インドにおいても、天文の研究を無視することは、歴史と縁を切り、数千年にわたって築きあげられた知的伝統との関係を断つことになるのです。同じことは中国や中東についてもいえます。

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