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日蓮大聖人・池田大作

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三 核兵器は〈絶対悪〉  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  核の魔性による非劇
 池田 人類の直面している危機を文明論的に位置づけてきましたが、ここからは個別的な問題を取り上げ、具体的に掘り下げていきたいと思います。
 一九八三年、「核戦争後の地球」についてのTTAPSグループの人々の発見がリポートされてから、「核の冬」と呼ばれる現象が世界中の人々に強烈な印象を与えました。私もそのリポートを読みましたが、長い科学史のなかでも最も重要な研究成果の一つになりました。
 博士 地球上のいたるところで何十年もつづく「核の冬」は、核の大爆発後、微粒子のベールが不可避的に地球全体をおおい、長期にわたって日光を遮断してしまうことによって起きるのです。この大破壊で生き残った植物や動物も、光合成が全地球的に阻害されたり、食物連鎖が断ち切られたりして、苦しむことは避けられないでしょう。核による大破壊の恐ろしさの全容を考えれば、ほとんど正気ではいられないでしょう。
 池田 まさに、核兵器をウルチマ・ラチオ(最後通牒)とする力による支配構造は、西洋科学技術文明を通じて徐々に進行してきた機械や政治機構による人間支配の、ある意味での完結といえます。
 しかし考えてみれば、すさまじい破壊力を秘めた軍事力に支えられている軍産複合体機構は、それ自体が核や権力の魔性に支配された存在でありました。いわゆる〈核抑止力論〉の延長線上には、核の魔性に操られた、人間不在のおぞましい悲劇の結末が見えてくるようです。
 博士 一九五四年のことですが、バートランド・ラッセルがラジオ放送で核戦争を告発し、ビキニ環礁での水爆実験に抗議して共感を呼びました。その訴えは今日でも切実さを失っておりません。
 「悠久の歳月にあって、太陽は昇っては沈み、月は満ちては欠け、星は夜空に輝いてきた。しかし、これらの現象は、人類の出現によってはじめて理解されたものである。天文学の大きな世界と原子の小さな世界において、人類は発見できないと考えられていたさまざまな秘密を解明した。芸術と文学と宗教の分野では、崇高な感情を表現した人々がおり、そのために人類は存続する価値のある存在となったのである。これらの成果はすべて、どれかの人間集団のことではなく、人類全体について考えられる人がほとんどいないために、無意味な恐怖のなかで終焉を迎えるのであろうか。われわれ人類は知恵を欠き、偏頗なく愛することができず、自己保存の最も単純な原理にさえ目を向けないために、自らの無分別な才知の最後の証明として、地球上の全生物を絶滅させてしまうのであろうか」(一九六二年、イギリスのBBCがバートランド・ラッセルの九十回目の誕生日を記念して放送したラジオ番組から)
 このスピーチの後に、世界各国のノーベル賞受賞者たちが署名した、核兵器を非難する有名な「ラッセルアインシュタイン宣言」がつづいたのです。
 池田 「ラッセル・アインシュタイン宣言」は、核軍縮や平和運動に大きな影響を与えました。私も、かつてバートランド・ラッセルが指摘したように、核兵器は「絶対悪」であると位置づけておきたいと思います。核兵器という絶対悪による均衡から平和がもたらされることは、断じてありえません。
 博士 広島の原爆資料館を見学したとき、私は見ました――人間の遺体の破片を、そして小学生の焼け焦げたランドセルや弁当箱や衣服を。
 これらの展示物を見て、私は心が凍りつく思いでした。この展示は、原爆投下が人類史上最も悲惨な出来事の一つであることを改めて痛感させます。――火炎につつまれた教室から先を争って外に出ようとしている子供たち。背中が赤むけになって皮膚が垂れ下がっている。そして、炎々と燃え上がる街なかを自分の家のほうへ走っていく――こうした幻影が今でも頭から離れません。
 私の胸は悲しみと同時に恥ずかしさでいっぱいになりました。悲しく思ったのは、人命などなんとも思わないこの大量殺戮によって、何千人もの人々が長い間苦しみながら死んでいっているからです。
 恥ずかしく思ったのは、「この原爆を投下した人たちは、それがどのような結果を生じるか、その細部にいたるまで知悉しながらそれを実行したのだ。このように人間という〈種〉は、自分の同類つまり同じ人間仲間にこうしたむごい、しかも計画的な苦痛を与えて平気でいられる生き物なのだ。そして、この私自身もその〈種〉の一員なのだ」ということを認めたからです。
 平和への訴えに疑念をいだく人がもしいたならば、私はその人に広島の原爆資料館の見学を心からすすめたいと思います。ここには四十八年後の今日もなお、あの一九四五年八月六日の惨事が記録としてとどめられており、そうした恐ろしいことを二度と再び起こしてはならないことを、改めて私たちに痛感させてくれるのです。
 今日までの状況を考えてみれば、自分たちの未来、そして子供たちや孫たちの未来を心配したとしても、それは妄想症だと責めるわけにはいきません。このような心配を軽減できるのは、兵力削減と二国間(または多国間)の軍備縮小について綿密に立案された国際的な計画のみでしょう。
 アメリカ政府は、〈戦争抑止〉を次のように定義しています。「結果に対する恐怖によって戦闘行為を防止すること。抑止とは、自分に不利な報復行為という確実な脅威の存在によって引き起こされる心理状態である」
 かつての米ソのように、敵対する両陣営が核兵器を所有し合うのは戦争抑止になるから賛成だ、という意見がしばしば聞かれますが、私は、抑止政策を積極的に推進しても、長期にわたる安全や安定が実現するとは思いません。核兵器をすでに知ってしまったのだから、知る前の状態に逆戻りできない、と言われますが、それは議論する余地のない事実です。
 また、アメリカと同盟諸国は自ら守るべき生命と自由に対する重大な脅威に直面している、とほのめかす人もいます。脅威は当然存在するとしても、全人類の未来を危険にさらすほど重大なものだとは思いません。
2  小国に増える〈核兵器信仰〉
 池田 ポスト冷戦をむかえて、ようやく軍縮路線が着実な軌道に乗ってきました。とくに一九九一年九月に、ブッシュ大統領の核軍縮提案、それを受けてのゴルバチョフ案が出されてから、核軍縮のペースが一段と加速されようとしております。核軍縮にとって、歴史的といってよい転換点をむかえたようにも思われます。
 しかし、アメリカと旧ソ連の核戦力がさらに縮小されるにしても、核抑止力への信頼性が放棄されたわけではありません。
 博士 私たちは今、まことに興味津々たる時代に生きています。こうして対談をつづけている間にも、世界の政治地図は絶えず塗り替えられています。さまざまな変化がものすごい速さで起こっています。
 昨年(一九九二年)、ロシアのエリツィン大統領は、核兵器保有量の大幅削減に関する提案を発表しました。さらに同大統領は、核戦争の危険から地球を守るにはロシア=西欧同盟が必要であるとさえ言っています。
 これらはいずれも希望のもてる徴候です。だが、前方にはまだ不穏な形勢が見えます。たとえば、独立国家共同体の経済はあまりにも脆弱すぎます。ですから、エリツィン大統領が良かれと思って事を行っても、軍部が即刻妨害するという危険性が実際にあります。ロシアでは軍部が依然としてきわめて強大な勢力を保持しているからです。今、新たな世界秩序ということがさかんに論議されていますが、その新秩序自体が風前のともしびといえるのではないでしょうか。
 もう一つ大きな問題があります。核兵器の製造に必要な技術と原料が今や、いわゆる第三世界諸国をも含む多くの国々にとって入手可能になったということです。こうした状況のゆえに、諸大国は核抑止論に逆戻りしたほうが賢明であると考えているのです。
 〈核兵器信仰〉を奉ずる小国が増えるにつれて、どこか世界の果てで一人の狂人が警告なしに核兵器を戦闘配備する危険性があることは、現実的であるだけに不気味です。この危険が近い将来、かつての米ソ両国の重大な対決の危険をしのぐことは十分にありえます。核兵器が偶発的に使用される危険性も時とともに増大しています。
 池田 私がかつて対談したジョン・ケネス・ガルブレイス教授は、最近の著書『実際性の時代』(岸本重陳著・訳、小学館)の中で、〈死の核兵器による内戦〉について次のように述べています。
 「今や圧倒的な危険性は、これらの武器が、無責任で野蛮な人物の手に落ちることはないかということにある。(中略)これらの核兵器は、米ソ両国の内部で非常に広範に散らばっているので、今日では重大な憂慮の種にならざるをえないことは、確かなのである。(中略)国内抗争が泥沼化して核兵器による内戦にまで悪化していくのを防止することが、非現実的なことであるわけはないではないか」と。
 そして教授は、国連の管轄のもとで「米ソ」合同の専門委員会をつくり、確固とした時間表にしたがって死の兵器を集めて処分することを提案しております。現在、旧ソ連の各共和国に散らばっている核兵器が、政治的動乱の中で一人の狂人の手にわたる危険性は、現実的にありうるのです。それだけに、ガルブレイス教授が指摘するような核管理の問題はきわめて切実です。
 博士 同感です。旧ソ連の崩壊により、この問題は一段と深刻化しています。核兵器の集中管理ができなくなるからです。
3  求められる〈魂の力〉の蘇生
 池田 核軍縮への歩みが加速されているとはいえ、領土や民族・宗教を原因とする地域紛争が頻発している現状、また核拡散の状況を考えると、核の脅威はいまだに人類のうえに重くのしかかっています。私は、このような核戦争の脅威を文明論的に位置づければ、まぎれもなく西洋科学技術文明が直面している一つの破局の姿ではないかと思うのです。
 今日の核を中軸とした兵器体系は、宇宙の研究開発の副産物でもありました。さらに化学兵器・生物兵器も、科学技術文明の所産の一つです。
 博士 そこで、核兵器の発明につながる科学技術の発達がなかったならば、世界はもっと安全な状態になっていたであろう、という意見もあるでしょう。私は、核兵器に対して嫌悪の情をもよおすものですが、だからといって、こうした考え方に同意するものではありません。人間の知識に対する探究心をおさえることはできないのです。
 もちろん科学者たちは、彼らの発見した成果が悪用されたことで非難されるべきではありません。科学的発見の成果を責任をもって活用していくのは、政治家と世界の指導者の責務であるからです。
 池田 ご指摘のとおり、人間の真理探究の心を抑圧すべきではありません。科学技術は、宇宙から原子にいたるまでの広大な知識の領域を開拓してくれました。ひとえに、科学者の真理探究にかける偉大な努力のたまものです。しかし、その科学的成果をどのように人類の幸福と繁栄に役立たせていくかという人類の英知が、いまこそ求められているのです。
 いうなれば、核兵器という〈絶対悪〉に集約される〈外〉なる衝撃に対して、〈内〉なる道徳的・倫理的歯止め、善なる〈魂の力〉を失ったところに、現代文明の危機があると思うのです。
 博士 人類を文字どおり核戦争の勃発寸前の状態にまで追いこんだ科学が、ほぼ全面的にその基盤としたのはデカルトの還元主義哲学であり、徹底したレス・コギタンス(思惟)の無視、宗教的・道徳的価値観の確実な排除でした。再考の結果として、道徳的・倫理的配慮が再び取り入れられることもありますが、それらはかならずといってよいほど論争の的になり、効果はあがっていません。
 キリスト教は、中世から産業革命の黎明期にいたるまで数世紀にわたって、かがり火のように輝き、ヨーロッパ諸国の運命を導きました。キリスト教は美術や音楽、文学、哲学に影響を与え、社会の目的にもかなうものでした。また、家族や社会集団を結束させました。金持ちは金銭を教会に寄付し、それはまた貧しき人々に手渡されたのです。こうして教会は、社会を平等にするという役割を果たしました。
 罪人は永劫にわたって断罪されると信じることができた人々は、罰せられることを恐れて罪を犯しませんでした。教会は社会制度として強大な権力をもつようになり、その権力は、教会の教義(ドグマ)の正当性が疑われるようになるまでつづいたのです。
 すでに話し合ったことですが、十七世紀の半ばにガリレオとコペルニクスによって、キリスト教の教義への最初の挑戦がなされました。そして十九世紀後半には、ダーウィンが教会と重大な対決をしました。
 コペルニクスからダーウィンにいたる時代に、プロテスタント主義の出現とキリスト懐疑論の台頭をみました。還元主義の科学が進歩し、キリスト教の教義の矛盾が明らかになるにつれて、宇宙および人間の本質に関するキリスト教の基本的信条は着実に侵食されていきました。
 このような矛盾が科学にとって本質的な問題となるのか、あるいは、その矛盾が還元主義的アプローチの限界に起因するのかは、疑問の余地があるでしょう。しかし、キリスト教のもつ教化と抑制の力が社会に与える影響は、ここ数十年のあいだに弱まってきたことは事実です。教会が空になりつつある状況下で、私たちに残されるのは道徳的価値を失った社会なのです。
 人間は年月の経過とともに、だんだん道徳基準を失ってきており、私はこの点にさしせまった危険を感じます。道徳的価値観がなくなった人間の行為は、素朴かつ単純な捕食者でしかなかった原始的な人間の行為に近づきます。違う点といえば、私たちは地球上の全生命を破壊させるに十分な凶器、つまり核兵器で武装した捕食者であるということです。
 デカルト的レス・コギタンスをふたたび私たちの世界観にとりこむことが、絶対に必要であると思います。このことがキリスト教的価値観への復帰を意味するのかどうかは、これから見きわめなければなりません。私の推測では、二十一世紀をむかえるにあたって必要とされる全包括的な世界観を、キリスト教に求めることはできないでしょう。
 東洋の哲学では平和と慈悲が最高の位置を占めますが、その哲学に希望を求めようとする西洋の若者のグループに、私はいつも感銘をおぼえます。仏教は東洋哲学の最高峰の一つであると確信します。仏教は〈全包括的世界観〉を含んでいますから、当然のことながら、私たちが二十一世紀を安全に生きるための指標となる宗教の候補に挙げられます。
 池田 人類が宗教性を土壌として道徳観・倫理観を回復することが、二十一世紀の世界のカギだと思います。善心という〈魂の力〉を蘇生させた地球社会を創出しゆく民衆の平和希求の運動に支えられてこそ、国連を中心とした政治・経済次元での軍縮と非核の安全保障システムの提案が、人類に実りある果実をもたらすことができるからです。

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