Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序文  フレッド・ホイル  

「宇宙と人間のロマンを語る」チャンドラー・ウィックラマシンゲ(池田大作全集第103…

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1  新たな世紀の到来を目前にして、今、人類は多くの難問に直面している。本書はそうした問題のいくつかを対話形式で考察したもので、芸術・科学・社会学・宗教など、多種の分野に及んでいる。対話者は二人の著名な碩学である。それぞれの考え方や見方にはしばしばかなり大きな隔たりが見られるが、結果的には意見が一致している。それは一つには二人が論理を尽くし、論議を十分に交わしたからであり、いま一つには両者が仏教という共通の文化的遺産をもっているからである。
 二十世紀が科学に支配された世紀であることは、だれが見ても明らかである。科学は長足の進歩をとげた。とくに今世紀前半についてそのことがいえる。科学・技術のおかげで私たちの生活は一変してしまった。その変化の度合いは、ほんの五十年前にすら想像もできなかったほどである。今日でも新たな発見が次々となされ、科学専門誌には事実にもとづく大量の、きわめて複雑な情報が相変わらず満載されている。だが注目に値することが一つある。科学的事実の探求が、切手収集的な性格をおび始めているということである。つまり、科学者たちは哲学することをますます嫌うようになり、旧来の概念を評価し直したり修正したりすることを、ますますいやがるようになっているのである。二十世紀初頭には科学と哲学とは不可分の関係にあった。事実、イギリスの中でも歴史の古い大学では、科学のことを自然哲学と呼んでいたくらいである。二十世紀末の現在、科学と哲学はたもとを分かったかの感があるが、これは双方にとって大きな損失である。科学がその失われた活力を取り戻そうとするのであれば、現在のような態度を改めることが必要となろう。
 十九、二十世紀の科学・技術はヨーロッパの文化に深く根ざしていた。ところが現在では東洋の、なかんずく日本の文化が、科学面・産業面にますます大きな影響を及ぼし始めている。本書の対話が実証しているように、アジアの歴史の古い諸哲学は、二十一世紀に現出するであろう科学文化の中で重要な役割を演じることになろう。
 過去数千年間に数多くの宗教・哲学が出現した。それらの思想体系のなかで、科学に最大の影響を及ぼしたのがキリスト教であることは疑いの余地がない。そうした影響力は、この宗教の創始者の見解に由来するものではない。その淵源は後になってから加えられた諸見解なのである。その大部分は西暦五〇〇年ころに形成された。これらの見解は次のようなものである。「何事もこの地球上で起こることは、地球の外側の宇宙で起こる出来事といかなる関係もありえない。ただし、あのありがたい太陽熱だけはもちろん別である」。事実、中世においては宇宙は固定したものであり、天空は不変であると考えられていた。これに少しでも異論を唱える者は恐ろしい刑罰に処せられた。紀元一〇五四年に超新星が現われた。中国の記録によると、この星は数週間にわたって金星以上の光度で輝きつづけたということである。ところが驚くべきことに、ヨーロッパではこの事実をあえて記録しようとする者はだれ一人いなかったのである。太陽についても同様である。太陽は非の打ちどころがないものと考えられていた。したがって、条件さえ整えば大きな太陽黒点を容易に観察することができたにもかかわらず、黒点に言及することは許されなかった。いわゆる肉眼でも見える黒点を幾世紀にもわたって何億という人々が目にしたはずであるのに、黒点に関する記録はいっさい現存しない。
 キリスト教のような時代に逆行する宗教が科学の発達を促進したということは、かなり不思議に思えるかもしれない。だがそれは事実である。外部からの影響とは無関係に解くことのできる科学的な問題は数多く存在する。そうした、いうなれば「閉じた箱」の中の問題は概してごく単純な問題ばかりである。したがって、それらの問題に注意を集中するのはきわめて当然のことと考えられた。その結果、単純な問題のほうは次々と解かれていった。しかしその一方で、外部からの影響と密接な関係のある、より難解な問題は、文化的・宗教的考慮という重苦しい制約のゆえに、「立入禁止」とみなされるようになった。つまり科学は、キリスト教の教義によって、解答を得ることがきわめて容易な部分、すなわち急速に進歩する見込みが一番ありそうな部分にのみ注意を集中するよう強いられたのである。成功はこのようにして得られたのであるが、一言いわせてもらえば、知的な見地からそれはまず成功と呼ぶに値しない。その種の成功のことを本書では還元主義的科学の諸成果と呼んでいるのである。
 そうした科学には明らかに不利な点がある。それは、還元主義的な態度はたしかにこれまで数々の成功を収めてきたが、もしそれが改められずにつづくとすれば、今度は失敗するだけであろうということである。地球と宇宙全体とのつながりを前提としないかぎり解決できない問題が数多く存在する。いずれも従来の方法論ではいつまでたっても対応・解決ができないであろう。これが今まさに私たちを取りまいている状況である。「閉じた箱」の中の問題は事実上すでに底をついているのに、教育の場では「開いた箱」的な考え方をいまだに禁止しているのである。近年、実験による研究がとくに活発に行われているにもかかわらず、科学上の基礎的な発見のなされる速度が目に見えて落ちているのは、まさにそのせいであろう。基礎科学はすでに気力を失っている。「閉じた箱」の中には、解決すべき重要な問題はもう残っていないからである。すべて基礎科学の猛烈なペースに飲み込まれてしまったのだ。いま残っているのは「開いた箱」の中の問題だけである。そしてそれを解決するにはこれまでとまったく違った考え方が要求されるのである。
 こうした現状を示す好例が生命の起源という問題である。古来の文化的抑制によって、この問題は地球という「閉じた箱」の範囲内でのみ検討すべきであるとされている。ところがこの箱の中には、生命の起源に関する解答も生命の進化に関する説明も存在しない。したがって、実験から得られた資料が山ほどあるにもかかわらず、生物分野の諸科学の現状は知的内容の乏しいものであるといっても差しつかえないであろう。同じことが宇宙論についてもいえるのではないかと私は思う。科学の現状は、いわば小さな子供たちが集まって、少々面倒なジグソーパズルの絵を組み立てようとしているようなものである。ピースのうちのいくつかは、たしかにぴったりとはめこむことができる。それがつまり科学の収めた成功として認められているものである。しかし他のピースは一見そこに合いそうな形をしているものの、ぴったりとははまらない。そのときに子供たちがよくやるのと同じことを、現代の生物学者、宇宙論者、そしてなんと物理学者までもがやっているように見える。つまり、それらの合わないピースをむりやり押し込んでしまうのである。したがって無数の小さなすきまが残ることになる。このことからみて、パズルの絵をほんの少しの狂いもなく組み立てようという試みは失敗するであろうと考えてよい。
  未来を予測することは周知のようにたいへんな冒険である。しかし、私はあえてその危険をおかして次のように示唆したい。科学は二十一世紀において、ついに「閉じた箱」的考え方から脱け出すであろう。地球上の出来事と大宇宙内の出来事の間には密接な関係のあることが認められるであろう。そして、そこから生じるさまざまな結果は、おそらく科学に広範な影響を及ぼすだけでなく、哲学にも多大の恩恵をもたらすであろう。

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