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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 現代の目標  

「文明・西と東」クーデンホーフ・カレルギー(全集102)

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1  新しい文明の興隆
 池田 現代文明は、今や世紀末的症状を呈している、と言っても過言ではないように思えます。というのは、ある意味で、現代は、確かに繁栄の絶頂にあるとは言えますが、しかし、人間精神の内部に目を向けると、その荒廃ははなはだしいものがあると言わざるをえません。
 物質的な繁栄と精神的な退廃、富める国と貧しい国との格差がますます開いている事実、″生きがい″の喪失――これらは、ある意味では、口―マ帝政末期の状況に似ているのではないかと思います。
 世界は、このまま退廃の淵に沈んでいってしまうのか、あるいは新しい文明の興隆によって立ち直れるのか、もし立ち直れるものならば、その新しい文明の興隆は、どのような形でなされるのか――などについて、あなたのご意見をうかがいたいと思います。
 クーデンホーフ これは、大変むずかしい問題ですが、私は新しい宗教運動が台頭してくるのではないかと思います。
 そこで、キリスト教がはたして生まれ変われるものかどうかが第一の問題です。キリスト教にもはや期待がかけられない場合は、次に仏教が新しく生まれ変われるかどうかです。
 新しいというのは、天才的な宗教家が出現して、新しい宗教の土壌の上に、新しい文明を建設するかもしれないという希望です。あるいはまた、唯物・共産思想が、さらに発展して宗教に変形するということも考えられるかもしれません。
 ヨーロッパの青年は、ソ連の共産主義者たちよりも、毛沢東に魅力を感じているようです。予言者的な面をもっているからでしよう。いずれにしても、明日の文明は宗教の文明になるにちがいないと、私は信じています。
 池田 アーノルド・トインビーは、歴史家の観点から、文明の発展は、直線的、一貫的ではなく、多様な特質と生命をもった文明が、同時に存在し、それぞれの文明は、その生命を終えるとともに消滅するが、その特質は、他の新しい文明に吸収されて、展開していくという考え方を述べています。
 こうした文明史観を、あなたはどう評価しますか。また、とくに日本は、これからの世界文明に対して、どういう役割を果たすことができると思いますか。
 クーデンホーフ トインビーが、現代における、最も偉大な歴史家の一人であることはいうまでもありません。
 私の考えでは、日本は、過去の文明の最先端のものを受け継いできています。仏教と儒教と、そしてヨーロッパ文明です。これらを統合することができる立場にいるのは日本だけです。したがって、二十一世紀における日本の使命は、全人類にとって、大変重要だと思います。
 池田 新しい二十一世紀の文明のあるべき姿は、種々の観点から論じることができると思いますが、私は基本的には、人間性の回復、人間の尊厳への復帰であると考えます。ところが、人間性とは、きわめて多様的で、しかも掘り下げれば掘り下げるほど、底知れない奥行き、深さをもつものです。
 人間性の回復、人間尊厳への復帰ということは、こうした多様性と奥行きを認め、人間のもつ多彩な能力を、フルに発揮させるものでなければならないと思います。
 現代の科学技術文明は、この人間性を画一化する傾向がきわめて強いところに重大な誤りがあると考えます。人間は、こうした画一化に我慢できないのです。これでは溌剌たる生気が発揮されるはずがありません。
 私は、これを打開する一つの学問的な方向づけとして、人間の中にある自然を再発見し、人間性をそのありのままの姿で認め、しかも良い方向へ伸ばしていくために、「人間自然学」ともいうべき、新しい人間再認識の学問を提唱します。そうなれば、必然的に、人間と環境との関係も明らかになっていくと思います。
 人間は、肉体と精神の統一体であるとともに、自然や、社会、文化など外的環境との統一体であります。
 ところが、これまで、学問は、人間を全体としてとらえるのではなく、部分部分に解きほぐし、各部分を、さらに細分化してとらえて、研究してきました。こうした研究も必要でしょうが、しかし、部分と部分との関係、さらに生命の全体としての調和――ここに生命の不可思議さがあります。
 生命について、さらに人間性について、その実体を明らかにするためには、人間を全体としてとらえる研究が、今後必要になってくると思いますが、いかがでしょうか。
 クーデンホーフ まったく同感です。医学と同じで、目、耳、歯といった個々の部分のスペシャリストも必要ですが、人間を全体としてとらえ、解明しようとする学問がなければなりません。
 池田 そうですね。医学は、それが最も端的に表れている例です。
 外科医学の発達によって心臓はじめ臓器移植が盛んに行われるようになっています。しかしそれは、人間生命を機械論的にとらえる考え方にもとづいているものであって、私は非常に危険なものを感じます。
 だから私は、これまでも、臓器移植は無制限に許されるべきではないと主張してきました。
 クーデンホーフ 私も、同感です。私は、どこで、その線を引くべきか――医学だけでは結論が得られない問題と判断しています。
2  自由と平等の止揚
 池田 自由について、さらに歴史的観点からのご意見をうかがいたいと思います。
 クーデンホーフ 過去、何世紀にもわたって、ヨーロッパは自由を最高の理想、理念としてかかげて、その獲得のために戦ってきました。
 自由獲得の歴史を振り返ってみると、まず、古代ギリシャはペルシャの王侯への隷属から解放されるために戦いました。古代ギリシャ人にとって、自由は、神聖そのものでした。ゲルマン民族は、強大なローマ帝国と戦って自由を守り抜きました。
 中世時代、騎士は、専制王制に対して、自由の名において戦い、農民は騎士を相手に、自由のために戦いました。プロテスタントは、信教の自由を旗印に、カトリックと戦って宗教革命を達成しました。文芸復興は、人間精神を封建制の束縛から解放するために戦った結果、勝ち取られたものです。
 近世に入ってからも、自由の名において、君主、王侯、貴族を相手に、臣民から自由市民になるために戦いました。フランス革命では、市民たちが君主制を打倒することによって、みずからの運命をみずからの手で決められるようになったのです。
 このようにして、自由は、ヨーロッパ人にとって最も重要な理念、最高の理想とされてきました。そして、そのために生命をもなげうつ人々を尊敬したのです。
 自由のための戦いは、ヨーロッパの伝統となり、そしてヨーロッパ文明の原動力の一つとなってきたのです。
 池田 確かに、自由はすべての人間が本能的に望むものであり、とくにヨーロッパの歴史の重要な原動力となってきました。しかし、人間が社会生活を営んでいくうえで、秩序と自制もまた、なくてはならないものです。
 その意味で、自由の理想の追求は、一歩誤ると、かえってその破壊をもたらす危険を含んでいるのではないでしょうか。
 クーデンホーフ ご指摘のとおりです。たとえば歴史的にこれをみますと、古代ギリシャは、市民と都市国家とが、互いに自由と独立を主張して譲らず、さらに都市国家同士で争ったため、まず、マケドニアによって征服され、次いでローマに征服されて滅亡しました。
 自由を求めたはずのフランス革命は、無秩序と無政府主義を引き起こし、やがてナポレオンによる専制によって取って代わられました。
 旧オーストリア・ハンガリー帝国は、二つの国民が合体することによって強大になるよりは、弱くてもいいから別々に自由でいたいと考えました。その結果、ヒトラーに征服され、次いでソ連の餌食となりました。
 幾世紀にもわたつて、ヨーロッパは分割されたままの状態がつづきました。それは、支配者と諸国民が自由と独立に執着して、より大きな脅威に対する対策を怠ったからです。このように、自由は、たえず無秩序、無規律、放縦、無政府主義、独裁制への危険をはらんでいます。
 池田 では、自由を防衛するためには、どうしたら良いと思いますか。
 クーデンホーフ 自由は、秩序と規律なしには、長つづきしません。秩序と規律の典型的事例はスイスです。二十五(=当時。現二十六)の小さなカントン(州)が、連邦政府の秩序と憲法にもとづく規律を守ることによって、それぞれが自由を享受しています。
 自由の過大視、自由の行き過ぎは、国家のみならず、個人や家族をも破壊する危険をはらんでいます。ところが、現代は無制限なまでに自由を求める風潮があり、これはきわめて危険な傾向だと、私は思います。
 ところで、ロシアの歴史は、ヨーロッパとは、まったく異なっていて、かつて自由が存在したこともなければ、民衆によって享受されたこともありません。
 中世の前期には、スカンジナビア人の支配下にあり、中世後期は、モンゴリアンの支配下にありました。近世に入って、帝政ロシア時代はツァーの独裁制のもとに置かれ、また、ボルシェビキ革命以降、現在にいたるまで、民衆が自由を享受したことはありません。ロシアの歴史は、およそ自由というものを知らないと言っても過言ではありません。
 池田 われわれが、明確に知っていかなければならないことは、自由は放縦とは違うということ、自分勝手な、無制限な自由というものはありえないということだと思います。言い換えれば、自由といっても、そこには、他人に迷惑をかけないという前提がなくてはならない――つまり、おのずから責任を含むものだということです。
 その意味で、自由の概念は、秩序や規律を前提としたものでなければならないわけですね。
 次に、自由と対照して、平等の理念についてどうお考えになりますか。
 クーデンホーフ 私の考えでは、自由に比べれば、平等は、それほど純粋な理想、理念ではありません。動物でも自由は求めますが、平等は必ずしも求めてはいません。
 というのは、いかなる動物の群れにせよ、必ずリーダーがおり、そしてその命令に従う者がいます。人間社会にも、たいてい命令する者と命令に服従する者の双方がいます。さらに、人間は多くの場合、この命令者であると同時に服従者でもあるという二重の性格をもっています。
 指導者をまったく欠いた絶対的平等の社会というものは、混乱と無政府状態を招きます。
 池田 平等を理想としたのが、ソ連の革命だったわけですが、その現状をどうみますか。
 クーデンホーフ 平等を求めて起こしたソ連の革命は、今日、別の不平等と特権階級を生んでしまっています。ボルシェビキによる独裁をめざしたものが、今日では、共産党による独裁体制になり、支配階級と権力なき民衆との間に、大きな格差を生じています。
 今日、ソ連国民が享受している平等は、自由を第一とするスイス市民のそれより低いと言えます。
 池田 私は、自由といい、平等といい、ともに人類にとって重要な理想であると考えます。
 問題は、ただ、これら二つの理想が、互いに矛盾し、対立しあう二元的な、どこまで行っても平行線をたどるものだということです。つまり、自由主義を貫けば、不平等になり、反対に平等主義は、必然的に不自由をもたらす――これは、歴史の示すところです。
 自由たらんとするのは人間の本性であり、その結果もたらされた弱肉強食の不平等の現実に対する革命、改革が平等の理念です。
 世界は、今日、それぞれ自由と平等を理想とする二大陣営に分かれ、対立していますが、私はそのいずれもが否定できない正しい理想だと考えます。ただし、どちらも部分観です。
 そこで、これら二つの対立理念を止揚し、昇華することのできる、より高い理念が求められるならば、二つの対立・相克を解消し、両方の理想を生かすことができると思います。
 このより高い次元の理念こそ、生命の尊厳――人間をはじめ一切の生物、自然、宇宙をも含めた――であり、人間性の尊重であると思います。
3  ファシズムと民主主義
 池田 次に、私は、現代文明の底流にある問題として、人間自身が非常に傲慢になっている点を指摘したいと思います。これは、近代合理主義が拠って立つ人間観のもたらした弊害ではないでしょうか。
 これを改めるためには、人間をふたたび、自然・宇宙の中に正しく位置づけた新しい人間観を確立する必要があると思いますが、いかがでしょうか。
 クーデンホーフ 宇宙の中心は、とうの昔に地球ではなく、いわば、宇宙中心というものはありません。あらゆる生物が、そのおのおのの世界の中心というべきです。したがって、環境とか社会というものは、同心円がいくつも集まって構成されたようなものだと思います。
 一人の人間の周りに、家族、友人、社会、国家などがあります。人間は自分自身に対して、第一の義務を負っているわけですから、他人や環境を変えようとする前に、まず自分自身を変える努力をすべきだと思いますね。
 池田 なるほど……。
 私は、人間の傲慢さが、政治的、社会的に表れた、最も極端な姿がファシズムであると考えます。あなたは、生あるすべてのものが、この世界の中心である、と言われましたが、ファシズムは、そうした考えとはまったく対立するものと言えますね。
 ファシズムのもとでは、独裁的な指導者のみが、その世界の中心であって、他は一切、それに結びつけられ、そのためにのみある存在でしかありません。その中心的存在と結びついていないものは、存在意義が認められないのです。これはまことに恐るべき政治形態だと思います。
 私は、現代の科学技術文明は、人間――とくに資本や権力をもった一部の人間――が独裁者であって、ほかの人間や生物、さらには自然にいたるまで、他の一切の存在に尊厳を認めようとしないのですから、これもファシズムに通ずるものがあると言いたいのです。つまり、生命の尊厳に対するファシズムというべきでしょう。
 クーデンホーフ ファシズムは、政治的にはボルシェビズムと同じように、民主主義と対立する政治形態です。また、ボルシェビズムに対する反動でもあり、いわばボルシェビズムのブルジョフ版でもあります。民族主義は、ボルシェビズムという毒物を注射されたことによって、ファシズムという伝染病に対して、免疫性と抵抗力をもつようになりました。
 私も、ファシズムは、まだ死滅してはいないと考えており、ふたたび台頭して、民主主義や金権政治に挑戦する可能性があるのではないかと恐れております。
 現に、ファシズムの亜流は、イタリア、スペイン、ポルトガルに残存しています。アメリカでも、人種抗争の激化にともなって、ファシズムが台頭する可能性はありうると思います。
 池田 いかなる場合であっても――それが仮に人間の主体性を勝ち取る目的で始めた運動であったとしても――やがて組織化され、機構化されて、定着してしまうと、かえってその組織や機構が人間の主体性を抑制する傾向があります。かつてキリスト教会が成立したときがそうであったし、今日では社会主義国の場合に同じ現象が見られます。
 そうした組織による人間性の抑圧を阻止するためには、どうすべきか――この点について、どうお考えですか。
 クーデンホーフ 私は、政治的な価値に二つの重要なものがあると思います。一つは自由であり、もう一つは安全です。自由は男性的な価値であり、安全は女性的価値です。男は本来自由を求め、女性はむしろ安全を求めます。
 各国家は、この自由と安全の間に妥協点を見いだすべきです。なぜなら、自由にも、安全にも限界があるからです。
 家族とは、安全性を約束する反面、自由を制約する社会制度です。個人主義は自由を高め、社会主義は安全を高めます。自由のない生活は悲惨であり、安全のない生活は危険です。
 だから、国家は、自由と安全とを、いかに結びつけるか、両方の妥協点をどこにみつけるかに努力すべきです。
 人間の行動は恐怖でなく、希望によって起こさせるべきです。
 池田 自由には、″与えられる自由″と、みずから″創造し、築いていく自由″があると思います。与えられる自由には、おのずから限界があります。私は、真の意味の自由とは、みずから創り出していく自由であると思います。
 民主主義とは、個人個人の自覚によって初めて支えられていくものです。ところが、現代文明、巨大な管理社会のもとでは、個人は、ますます埋没し、その自覚や自由な発想の機会が奪われていく傾向があります。
 今日、民主主義の危機が叫ばれているのも、この点にあると思いますが、いかがでしょうか。また民主主義をよみがえらせていくには、どうしたらよいか、ご意見があれば……。
 クーデンホーフ 民主主義の弱点ともいうべきものは、それがある誤った認識の上に立っているということです。つまり、民主主義は、国民の大多数が聡明であって、政治家の良し悪しを区別できるから、悪い政治家を排除して、良い政治家を選ぶことができるという前提に立っている制度です。
 しかし、事実はその逆で、多くの人々は、その区別がつかず、公約やイメージやフィーリングだけで投票してしまうものです。その結果、聡明でも善人でもない政治家が選ばれ、民衆の代表となるのが現実の姿です。
 だから、民主主義の歴史は、こうしてどこの国の場合でもかなり汚点があるようです。
 民主主義は、しかし、多数決の原則、つまり質よりも量を重んずるという現代の風潮には合致しており、今日、最も普遍妥当的なものと考えられています。
 しかし、私は、将来必ず、新しい、頭脳と精神による支配制度が出現して、民主主義に取って代わるだろうと信じています。そして、こうした知的な指導者層の教育のための、新しい学校がつくられなければならないと考えています。

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