Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 文明の英知  

「文明・西と東」クーデンホーフ・カレルギー(全集102)

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1  自然と人間の融和
 クーデンホ…フ 最近、ヨーロッパ人の間で、日本への旅行熱が年々高まってきています。日本でも、ヨーロッパ旅行が増えているそうですが、それというのも、日本と欧州は、ともに風物が美しく、互いに古い文化をもっているからでしょう。
 池田 自然は本来、美しく保護されなければなりません。
 人間は、結局、大自然の一部分であり、人間の内的環境とその外的環境は、密接不可分です。外的環境の破壊はそのまま内的環境の破壊、つまり人間の肉体の破壊、死滅へとつながるものです。
 クーデンホーフ 美しい自然は、人間の心と肉体にとって、不可欠の要素です。また、観光事業にとっては、当然、重要な条件です。スイスでは、汚水や廃液を河川や湖へは流さないようにしています。
 電柱ですら、自然の美しさをそこねるというので、電線はほとんど地下に埋設されています。自然美は、その国にとって大きな財産です。
 池田 われわれは、自然とは人間にとって何かということを、あらためて考え直すときが来ているのではないでしょうか。
 大自然は、非生物的環境を基盤として、一切の生物的環境が深くつながっています。非常に壮大な″生命の環″です。人間は、この生命の環の中にあるのです。この生命の環に、もっと目を開くべきでしょう。
 もちろん、人間は自然的存在であるだけではなく、精神的な存在でもあります。だがこの人間精神も、また、自然の多様さと深い関係をもっています。
 人間は自然を破壊するにつれて、自分自身の精神の中に、荒涼とした砂漠が広がりつつあることに、ようやく気づき始めたようです。
 クーデンホーフ 古代さながらの葦船で、大西洋を横断したノルウェーのヘイエルダール博士は「大西洋は全部汚染されていた」と語っていますね。
 池田 まったく恐ろしいことです。自然の破壊と汚染がこのままつづくと、大地も大気も、河川も海洋も、死滅させてしまう心配があります。自然の破壊と死滅は、人間の側の破壊と死滅につながるわけですから、環境の汚染に対する自然からの逆襲が始まっている、と言えるでしょう。
 要するに大自然が一個の壮大な生命の環であることに気づかない、人間の愚かさに由来しているわけですね。
 自然との融和、調和こそ、人間にとって重要な課題です。われわれはこの点について、もう一歩、賢明になる必要があります。
 公害問題は、科学技術の発達や、経済的繁栄を至上としてきた現代文明のあり方に対する重大な警鐘である、と言わざるをえません。
 クーデンホーフ おつしゃるとおりだと思います。私は、科学技術が公害を生みだした以上、こんどは科学技術が公害と戦う番だと思います。その責任があります。環境汚染から世界を守るためには、多くの新しい技術開発、発明が必要です。
 たとえば、自動車の動力源を、ガソリンから電気へ、暖房も石炭から天然ガスヘというように、公害発生源の改善こそ全力で取り組まなければならない問題だと思います。公害解決は、平和の問題と同じように重要問題であると考えるべきでしょう。
 池田 環境汚染の解決は、当然のことながら、手のつけられるところから始めるべきですね。そして、同時に、文明全体の再検討も行っていかなければならないと思います。
 公害問題の解決を、世界平和と同じく最重要と考えるべきであるというご意見には、私もまったく同感です。
 公害と戦争は、人類の生存権を脅かす点で、本質的に同じだと思います。事実、農薬を作る技術と毒ガスを作る技術は、本来、同じものです。
 環境汚染という現象の陰に潜む人間の愚かさと戦うことは、戦争を絶滅する道にも通ずるものです。
 私は、環境保護のために、世界的な連帯を深めていく必要を痛感します。そこで、世界の指導者がイデオロギーや感情の確執を超えて、あらゆる英知と経験を結集することが急務だと考えます。
2  国連は公害と戦え
 クーデンホーフ 国連は、環境保護を今世紀の最重要問題の一つとしてあつかうべきであり、公害に対して宣戦布告すべきです。
 私は、第二次技術革命というべきもののみが、公害問題を解決できると考えています。第一次技術革命は、筋肉から頭脳への移行を可能にしました。その結果、頭脳はこの地球上で最も重要な機能を果たすことになりました。
 今や、第二次技術革命によって、環境汚染と戦わなければなりません。それは、第一次技術革命に対する新しい科学技術による挑戦であり、反革命、つまりあらゆる生物を環境汚染から守るための戦いです。
 池田 これまでに環境汚染は、国境を超えた人類全体の問題として対処しなければならないと、話しあってきましたが、人類がこの問題に総力を挙げて取り組めば、世界は一つという理想へ向かって一歩前進になると信じますが、いかがでしょうか。また、あなたの世界連邦主義の立場から、この点どうお考えになりますか。
 クーデンホーフ 公害防止のための国際協力は、確かに世界連邦政府の構想を推進する、一つの機縁となるでしょう。しかし、世界の現状では道ははなはだ遠いというほかありません。
 人類はすべて同胞であって、共存のために互いに協力しあわねばならない――こういう思想を高めていけば、いつかは世界連邦政府も実現するでしょう。
 だが現実の世界は残念ながら、世界連邦結成には、心理的にまだほど遠く、おそらくわれわれの時代に、その実現を見ることはないと思います。しかし、われわれは、一歩一歩その準備をしていかなければならないと思います。
 これは一つの考えですが、公害問題を解決するため、日本は国連に対して、次のような提案をしてみてはどうでしょうか。
 つまり、公害対策のための特別な国際機関を設置し、その対策本部を日本に設けてはどうかという提案です。ユネスコ本部がパリにあるように、東京または大阪に、国連公害対策本部を置いてはどうかということです。
 この場合、日本政府がそのための所要資金と土地を提供すれば、大変素晴らしいことだと思いますが……。
 場所については、あの万博会場敷地の一部を提供することはどうでしょうか……。国連で承認が得られるかもしれません。
 池田 大変良い提案だと思います。私は、公害を根本的に解決するためには、文明の質的転換がなされなければならないと思います。そのためには、まず、征服の論理から、調和の論理への転換が不可欠の条件となるでしょう。自然の美を守るという思想は、公害問題を解決し、さらに戦争防止にもつながると思います。
 仏法の生命尊厳の思想は、自然もまた人間と同じく生命体そのものである、という調和の思想に立っています。反対に、自然を人間と対立するもの、自然は征服されるべきもの、と考えるのは、ユダヤ教やキリスト教などの一神教に深い関係があるのではないでしょうか。
 クーデンホーフ 人間対自然という対立概念は、元来、力と調和という二元論に発するものです。この二元論は、時間と空間、男性と女性、の対立概念にもあてはまるものです。
 概して、東洋では調和の理念が強く、一方、西洋では力の理念が支配的です。
 自然を神と悪魔の戦いの場であるとするのは、古代ペルシャのゾロアスター教(拝火教)の思想です。人間は、神の側に立って悪魔と戦う義務を負い、世界はそのための戦いの場であるというのです。
 つまり、人間は悪魔と戦う神の兵士である、という教えであるため、拝火教は、自然を悪魔の領域としてとらえているわけです。
 これは言い換えると、人間は自己の内面のすべて、肉体と欲望のすべてに対して戦い、より高い理想を求めなければならない、という対立の哲学、思想になります。あなたの指摘された対立、征服の論理ですね。
 このゾロアスター教の二元哲学はユダヤ教に伝わり、その後キリスト教やイスラム教にも、また共産主義思想にも影響を与えたと言えると思います。
 池田 なるほど。公害についてとくに重大なことは、それが母胎を通して子孫にまで大きな影響をおよぼすということです。
 これは、指導者が、後につづく世代の健康と福祉ということを、真剣に考えなかった結果だと言えましよう。
 いずれにしても、人類が生存しつづけていくために、協力してこの問題の解決にあたらなければならないと思います。そして、解決のための明確な戦略とスケジュールを立てることが大事ですね。そのためには、全世界の政府も政党も、科学者も企業も一般市民も、協力しなければならないと思います。
 公害は現実に、核兵器以上の脅威を人類に与えていると言っても決して過言ではありません。また、核兵器が、核実験という形で、大気や海洋を汚染していることも事実です。
 日本は、かつて核兵器による悲惨な犠牲をこうむりました。その結果、戦争を永久に放棄した平和憲法をもったわけですが、ところが現在は、公害というまったく別の脅威にさらされています。あたかも公害実験国のような様相です。このまま事態が進行すれば、やがて日本人の大半が死滅に瀕するかもしれない、と言われているほど、自然破壊、環境汚染が進んでいます。
 私は、日本こそ、まず、公害との戦いを全世界に呼びかける使命と責任をもつと信じます。ですから、その意味でも、あなたの提案である日本に国連の公害対策センターを設置する、というアイデアには大変賛成です。
3  人間の内なる転換
 池田 これまでの対談の中で、あなたはヨーロッパにおけるキリスト教の凋落について、繰り返し述べられていますが、それは、ここ半世紀における科学技術の急速な発達と密接な関係があるのではないでしょうか。
 クーデンホーフ 確かに、キリスト教の衰退は、新しい科学、とくに生物学や天文学との対立に起因しています。
 池田 その点、東洋の仏法哲学は、人間をも含む宇宙の一切の生命活動の変化や原点を因果律に置き、したがって、科学的思考法とまったく矛盾することのない生命観、自然観、そして宇宙観に立っております。
 今日、ヨーロッパやアメリカで仏法思想に強い関心が寄せられているのは、仏法が因果律を根本にしているため、科学的法則と矛盾しないところに由来していると思います。
 クーデンホーフ 仏教がキリスト教とは違って、科学の法則と反しないことは、大変偉大だと思います。
 教養あるヨーロッパ人なら、人間は神の作れるものというキリスト教神学よりも、動物から進化したとする、ダーウィンの進化論のほうをむしろ信じています。
 キリスト教は、人間と動物はまったく無関係で、人間は神の世界に、動物は自然界に属している、と説きます。人間と動物とは、まったくつながりがない、というわけです。
 ヨーロッパの一神教――ユダヤ教、キリスト教、イスラム教――と科学とのもう一つの争点は、宇宙観の相違です。これらの宗教では宇宙の中心は地球であって、宇宙の中で、地球だけが、人間のいる唯一の場所である、と説きます。
 一方、天文学は、宇宙には数千億もの星があり、その星のなかには、人間のような高等生物が生存していると推測される星が数百万もある、としています。私は、これはありうることだと思います。
 こうした世界観、宇宙観の対立によって、ヨーロッパの知識人は、キリスト教から離反し始めたわけです。極端に言えば、ヨーロッパの知識階級の大半は、もはやキリスト教を信じていません。大勢の人々は、信じているふりをしているだけで、偽善的にさえなっている、と言えましょう。
 池田 そうした近代科学の底流にある思想、つまり疑わしいことは信じないという考え方の淵源をたどっていくと、デカルトに帰着しますね。
 クーデンホーフ そのとおりです。デカルトは、真の意味で、近代ヨーロッパ哲学を確立しました。私は、デカルト哲学に、尊敬の念をもっています。
 池田 私も、デカルトを尊敬している一人です。彼は『方法序説』の冒頭で、「良識(bon*sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている」(落合太郎訳、岩波文庫)と述べています。彼は、人間が共通にもっているものを探り求めました。そしてそれを、良識や理性に見いだしました。
 昔の哲人、賢人と言われる人々の偉大さは、特定の人間だけがもっている特殊なものではなしに、あらゆる人々に共通するものを演繹的に見いだしたことにある、と思います。
 私は、仏法の出発点も、ここにあったにちがいないと信じております。あらゆる人間の中に秘められた普遍的な実体、人間、生物、無生物など、自然界、宇宙界の森羅万象の根本にある普遍的な法則――仏法はここに、根本の基盤を置きました。
 そこで、私は考えるのですが、現在、世界平和にとって、最も必要なことは、万人が何を共通の基盤として、新しい世界を建設していくかにあると思います。
 近代科学は、デカルトの合理主義によって、急速な進歩を遂げました。しかし、その科学も行き詰まってしまった今日、デカルトの思考法を超えたなんらかの共通の基盤を、人間の中に求めなければならないと思います。
 つまり、ふたたび生命の実体を解明することが必要になってきたわけです。そして、そのカギは、仏法にある、というのが私の信念です。
 科学の原点は、つねに人間であり、人間を離れた科学はありえません。近世以降の科学上の大発見もすべて、結局は人間の内なる世界を転換したことによってなされております。
 つまり、それまでの狭い自然観・宇宙観から脱皮して、より広い自然と宇宙への認識に立ったときに、科学は飛躍的進歩を遂げたと言えましょう。それが、冷静な洞察力と優れた直観的な知恵、演繹的な思考によっていたことは明らかです。
 コペルニクス的転回と言われる数々の転換は、結局、人間のこの内なる転換の結果であったと言えましよう。
 現代科学の最高峰である相対性理論、量子力学などの理論が発見され、確立されたのも、人間の自然認識、宇宙観の、まさにコペルニクス的転回によって、初めて成し遂げられたものだと思います。

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