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まえがき  

「文明・西と東」クーデンホーフ・カレルギー(全集102)

前後
1  〔対談者略歴〕
 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Coudenhove—Kalergi)
 一八九四年(明治二十七年)十一月十六日、東京・牛込に生まれる。父は、オーストリア・ハンガリー駐日代理公使のハインリヒ、母は、日本人の光子(戸籍名みつ)。日本名は栄次郎。九六年に父の帰任に伴いオーストリアへ。ウィーン大学で哲学と近代史を専攻。雑誌「パン・ヨーロッパ」を発刊するなど、パン・ヨーロッパ運動に挺身し、パン・ヨーロッパ・ユニオンの総裁となる。ナチスの迫害によってアメリカに亡命、ニューヨーク大学教授に。四六年に帰国、パン・ヨーロッパ議員連盟の事務総長に選出されるなど活躍し、EECの生みの親と言われる。一九七二年七月二十七日没。
2  本書は、昭和四十六年(一九七一年)二月から八月の間、「サンケイ新聞」紙上に連載されたクーデンホーフ=カレルギー博士と私との対談をまとめたものである。
 この対談は、博士が昭和四十五年(一九七〇年)の秋、二度目の来日をされていた折、東京で三回、延べ十数時間にわたって行われたものである。中国問題等を含め、東西文明論、世界平和への方途について率直に意見を交換した。
 博士との最初の出会いは、昭和四十二年(一九六七年)十月のことである。博士が生後一年余で日本を去られて以来、じつに七十一年ぶりに、文字どおり母の国に帰られたときのことである。NHKと鹿島平和研究所との共同招待が実現したもので、出発に先立って、予め、私との会見の機会を招待者側に申し出られたとのことであった。
 博士について、私の受けた最初の威難ぽ、血色の良い、整った面立ちの、知的で礼儀正しい、紳士ということであった。その折の懇談の中で、博士は、つねに現実をふまえながら段階的にその理想の実現に努められたこと、そしてつねに自己に厳格そのものであられたことがうかがわれた。
 その時、博士が「日本は世界第三位の経済力をもち、また世界に類例のない平和憲法をもっている以上、全世界の平和勢力を指導できる唯一の国となるべきである」と語られたことが、忘れられない。
 話が宗教におよんで、博士は、時代を超越し、科学と矛盾することのない仏法の普遍妥当性を信ずると述べられ、また「日本における近代仏教の復興は、世界的な物質主義に対する日本からの回答であり、宗教史上新たな章を開くものである」とも語られ、仏教の革新運動に多大な期待を寄せられていた。
 その後、チューリヒから丁重な書簡が届き「あの会見は、私の滞日中、最も有意義なものであった。私は、あなた方の運動に称賛の辞をおくるとともに、私が敬服してやまない仏教のルネサンスによって、日本一国のみならず、アジアと世界の将来に貢献されんことを心から期待する」と認めてくださった。
 それから三年後、博士は前夫人が亡くなられたあと再婚した新夫人を伴われて、昭和四十五年の十月ふたたび来日され、この対談となったのである。
 博士は「多くの人は日本の近代化に興味をもってやって来るが、私は永遠の日本に魅かれてやって来た」と語られた。
3  対談は、博士に比べれば遥かに若輩である私からの問題提起という形で進められた。日本論、日本とアジア、日本と西欧、西欧とソ連、中国論、日本と中国、アメリカ論、国連論、平和国家論、自然と人間、公害問題、宗教の従置、慇と死の問題、指導者策、人物論、太平洋文明、自由と平等、民主主義、生命の尊重、青年論、女性論、教育論等々――。
 博士は、キリスト教を基盤とする大西洋文明の後退と、それに代わるべき東洋の精神文明にもとづく太平洋文明の到来を予見された日本への提言から始まって、その独自の主張を数々展開された。そして博士の東洋的・演繹的ともいうべき発想に、私は少なからず共鳴したのである。
 この二度目の来日の折、博士はヨーロッパからの途次、カリフオルニア大学で一回、滞日中に八回、合計九回の講演を行われた。この講演を通じて、パン・ヨーロッパ運動の政治理想実現のための半世紀にわたる活動の上から、また生来の東西の英知を融合した演繹的・巨視的な歴史観・世界観の上に立って、日本および日本人に対し数多くの貴重な提言を行われたことは、われわれの記憶に新しい。その講演集『大陸日本』が、先に潮出版社から出版されているが、博士の言葉は、今日、世界平和を志向し、そのために何を成すべきかを模索しつつある日本人にとって、傾聴に値するものであったと思う。
 かつて三度にわたる世界大戦の発火点となったヨーロッパは、その第二次の大戦後二十七年を経たが、この間二度とほこを交えることがなかった。宿敵同士のフランスとドイツは歩み寄り、両国を中心としてヨーロッパ六カ国がEEC(欧州経済共同体)を結成して、これは近年EC(欧州共同体)へと次元を高め、そして近くイギリスをはじめとする四カ国を迎え入れようとしている。これら西欧十力国の共同体機構は、たんに経済面のみならず、政治面をも志向していることは周知のことである。究極の到達点がヨーロッパ合衆国になるか、ヨーロッパ連合になるか、それともヨーロッパ連邦になるかを予測することは、いまだ時機尚早であり、その前途に幾多の障害が立ちはだかっていることも事実であろう。だが、ともあれ、かつての対立が融合へと着実な歩を進めていることは剖目すべきである。ECのかかる動きは、対米、対ソ(=ソ連)、対中関係において、当然のことながらヨーロッパの地位を強化しつつある。そして幾多困難はあるにせよ、ECは、戦争のないヨーロくハを現出することに、やがては成功するだろう、と期待されるのである。

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