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日蓮大聖人・池田大作

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第24回「SGIの日」記念提言 平和の凱歌――コスモロジーの再興

1999.1.26 平和提言・教育提言・環境提言・講演(池田大作全集第101巻)

前後
1  いよいよ二十一世――「第三の千年」の扉はまさに聞かれようとしています。
 その幕開けとなる世紀が、戦乱と非人間性の猛威が吹き荒れた二十世紀の単なる延長線上としての時代となるのか。文字通り「新しい世紀」として、未来へ向け平和と希望に満ちた洋々たる地平を開きゆく時代となるのか。人類は、大きな岐路に立たされているといえましょう。
 深き閣を打ち払い、新しき千年の地平を照らす光は一体何か――それが厳しく問われている時なのであります。
 昨年十一月、秋深まる″千年の都″京都で、キルギス共和国の世界的文豪であるチンギス・アイトマートフ氏と語り合った折、まさにこのことが焦点となりました。そこで氏が投げかけたのが、「二十世紀は、十九世紀を超えたのか」との厳しい問いかけだったのです。
2  いわく、″十九世紀に活躍したトルストイ、ドストエアスキー、プーシキンたちは、「二十一世紀の精神的な規範」の骨格をつくったと言える。だが、果たして二十世紀の作家たちは、彼らの高みに達することができただろうか。この限界は、他の芸術や都新という面でも見られるものではない″かと。(「聖教新聞」一九九八年十一月二十日付)
 そのうえで、氏が難じていたのは、″この三人の文豪といえども、第二次大戦を経験していないし、共産主義やペレストロイカの時代も知らない″という点でした(同前)。つまり、彼らといえども、二十世紀の歴史を命運づけた最大の問題には直面していなかったと。旧ソ連の時代から、全体主義の圧政に屈せず、文学を通し人間の生き方、人類の歩むべき道を聞い続けてきた氏の真剣な問いかけは、私の胸に強く迫ってきました。それはまた、私の年来の問題意識でもあったからです。
3  確かに、二十世紀は、科学技術の進展に伴う形で人類に大きな恩恵をもたらしました。だが一方で、「進歩」が人間を置き去りにし、自己目的化してエスカレートしたために、起こった悲劇も決して少なくない。
 その傾向は年を経るごとに顕著となってきており、近年、クローン技術の人間への転用など生命倫理の分野で論議が高まっているように、″科学技術のひとり歩き″への懸念も高まっているのであります。
 果たして二十世紀は、人間を幸福にするという意味で、「前進」したのか否か――厳しく問い直しつつ、二十一世紀への希望の大道を開くことが、現代に生きる人間の責務であるとの思いで、私は行動してきました。その根底には、私の恩師戸田城聖第二代会長の熱願であった「地球上から悲惨の二字をなくしたい」との叫びがあります。恩師は、今世紀の半ば、二十世紀の折り返し地点ともいうべき時代にあって、仏法の人間主義を掲げ、人類の不幸の流転史を止めるべく行動を開始しました。その恩師が常々強調されていたことこそ、「二百年先を見通しながらの前進たれ」という点であり、「対話を通して全人類を結び、崩れない連帯をつくりあげるのだ」ということだったのです。私が今日まで、徹して、世界の識者や心ある人たちと語らいを重ねてきたのは、との恩師の言葉があればこそでした。

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