Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第23回「SGIの日」記念提言 万年の遠征――カオスからコスモスへ

1998.1.26 平和提言・教育提言・環境提言・講演(池田大作全集第101巻)

前後
1  人類の限りない進歩を信じ、颯爽と歩みを始めた二十世紀はまもなく終わりを告げようとしておりますが、その当初の理想に満ちた意気込みとは裏腹に、偏狭なイデオロギーに席巻されるがまま、絶え間ない戦争や殺戮、環境破壊、そして貧富の拡大など、これほどおぞましい悲劇と愚行が繰り返された世紀は、いまだかつてなかったといえましょう。
 私は、三年前のちょうど本日、ハワイの東西センターで行った講演の冒頭で、「二十世紀は、一言でいって、あまりに人間が人間を殺しすぎました」(「平和と人間のための安全保障」。本全集第2巻収録)と申し上げましたが、世紀末が押し詰まれば詰まるほど、その思いは募る一方であり、まさしくほぞを噛むの感を強めております。
2  かつて全面核戦争の恐怖が叫ばれたころ、"オーバー・キル(殺しすぎ)"という忌まわしい言葉が盛んに飛び交いました。幸い、ゴルバチョフ元ソ連大統領らの尽力によって冷戦構造に終止符が打たれ、ハルマゲドン(人類最終戦争)の悪夢だけは、遠ざかったように見えます。しかし、なおかつ、"オーバー・キル"という言葉だけは、あたかも"カインの呪い"さながら、今世紀に符丁のように付きまとい続けるに違いありません。
 昨年亡くなったアイザイア・バーリン氏といえば、古今の哲人、文人を"ハリネズミ族"と"キツネ族"に分類するなど、ユニークな発想で知られていますが、その氏も、「人類が互いに容赦なく殺し合いを続けたという点では、二〇世紀に匹敵する世紀はない」(『理想の追求』福田歓一・河合秀和・田中治男・松本礼二訳、岩波書店)と述べています。
 この言葉に、たとえば、アメリカの歴史学者アーサー・シュレジンジャー氏が全面的に賛意を示すなど、"大殺戮時代"ということは、識者のほぼ共通の認識になっている、といっても過言ではないでしょう。
 人類史の舞台を「暗」から「明」へ、「失望」から「希望」へ、「殺し合い」から「共生」へと回転させていくには、一体何が必要なのか――世紀末にふさわしく、様々な模索や展望が試みられているようですが、私は、もう少し巨大なスパン、スケールで、人類史を眺望してみるのも、意義あることではないかと思います。
3  御聖訓にいわく――
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」と。
 ここでいう「万年」とは、釈尊の滅後「正法千年」「像法千年」に続く、「末法万年」を意味しており、「万年の外・未来までも……」とは、末法の世の中を、未来永劫にわたって、日蓮大聖人の仏法が、あたかも枯渇の大地に慈雨が染み通るように、潤し続けるであろう、と。
 御本仏の大確信に立った、まことに雄大にして壮大なる展望であり、パースペクティブ(遠近法)であります。未来記であります。
 私どもは、こうしたいわば"仏法史観"の精髄ともいうべきものを、単に「正法千年」「像法千年」「末法万年」といった形式的かつカテゴリカルな捉え方をしたり、あるいは、人類の精神史の逐時的かつ単線的な流れ、進展をもっぱら追うだけの、表層的な捉え方にとどまっていては、決してならないと思います。
 大聖人の御境涯を忖度するのは恐れ多いことですが、大難に次ぐ大難に一歩も退かず、あれほど激しく生き、時代と格闘し、切り結んでこられた結句の御金言である限り、人類の精神史を貫流する深層海流に、深く深く棹さしておられたであろうことは、いってみれば自明の理であります。
 その深みに耳をそばだてながら、私どもは御金言を拝さねばなりませんし、そして、御金言に照らして、歴史の来し方行く末の深層海流を洞察しゆく活眼の人であらねばならない。そうであって初めて、「日蓮と同意ならば……」と仰せのごとく、地涌の菩薩の陣列に加わる資格を有することができるのであります。

1
1