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日蓮大聖人・池田大作

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第22回「SGIの日」記念提言 『地球文明』への新たなる地平

1997.1.26 平和提言・教育提言・環境提言・講演(池田大作全集第101巻)

前後
1  二〇〇一年まであと千五百日を切り、「新たな千年」の扉を開く二十一世紀の開幕は指呼の間に迫りました。この「千年」という大きな時代の転換期を前にして、私が懐かしく思い起こすのは、今は亡きミシェル・バロワン氏と交わした言葉であります。
 一九八七年一月、「フランス革命・人権宣言二百周年記念委員会」の会長として来日したバロワン氏と私は、はるか三十世紀を展望しながら人類の未来を語り合いました。
 「人類の一員としての責務を果たす意味からも、二百周年の行事を三十世紀への幕開けともなる有意義なものにしていきたい」と意欲を語る氏に対し、私は、「仏法では"末法万年"と説くが、それはそれとして、三十世紀という視点は、まことに重要である」と述べ、今一度、「生命」に焦点をあてて輝かしい「人間」と「文化」の時代を招来すべきであると訴えたのであります。
 それから十年が経ちますが、私たち人類を取りまく状況は、まさしく抜き差しならない状況に至っているといえましょう。
2  核兵器をはじめとする大量破壊兵器の脅威、民族紛争の激化、温暖化やオゾン層破壊などの地球環境の悪化、経済面における南北格差の拡大、精神病理や凶悪犯罪の広がり等々――行く末に暗い影を落とす危機は、個人の心身や社会、また民族や国家、そして生態系や地球というように、幾重もの次元で深刻化するに至っており、まさに現代文明そのものが、大きな行き詰まりをみせている感は否めません。
 その意味でも、翻っては、過去数百年の近代文明史の歩みを総括しつつ、思い切って発想を転換し、千年、二千年といった巨視的なスパンで人類史を俯瞰する作業が必要不可欠ではないでしょうか。
 私たちが直面している課題はいったいどういう性質のものか。二十一世紀が必然的に帯びざるをえない「地球文明」というものの性格、システム、位階秩序をどう構想していくのか――。未来世紀の足音が大きくなるのに呼応するかのように、さまざまなアプローチが試みられております。
 それぞれに示唆されるところが多いのですが、総じていえることは、それらの基調は、次なる世紀の未来像に確たる手応えを感じ取ってのものというよりも、暗中模索の域を出ていないように思われてなりません。
3  半ば当然のことだと思います。それほどに、不確実で不透明な世紀末の闇は深いともいえます。裏返せば、我々が肩に負っている数々のアポリア(難問)は、規模からいっても質的にみても、かつて経験したことのない、未聞の"新しさ"を秘めている。"新しさ"といえば聞こえはよいが、下手をすると人類の文明史に終止符を打ってしまいかねない不気味な予兆を伝えており、その覚悟で臨んでいかなければ、とうてい対応できないと思います。
 新しさといえば、フランスの気鋭の思想家アラン・マンク氏や、田中明彦・東大助教授の「新しい『中世』」という問題提起は、時流の動向を感じさせるものです。
 というのも、すでに半世紀以上も前になりますが、亡命ロシア人哲学者のN・ベルジャーエフが、世俗化を強める現代文明の行方に鋭く警鐘を鳴らしながら、"新しい中世"の到来を待望していたと記憶しております(『わが生涯』志波一富・重原淳郎訳、『ベルジャーエフ著作集』8所収、白水社、参照)。私もそのオーソドックスな危機意識に、少なからぬ共感を覚えたものであります。

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