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日蓮大聖人・池田大作

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第21回「SGIの日」記念提言 第三の千年へ 世界市民の挑戦

1996.1.26 平和提言・教育提言・環境提言・講演(池田大作全集第101巻)

前後
1  「戦後50年」という時代の大きな節目に当たった昨年の1995年という年は、さまざまな意味で私たちに「20世紀」の総括を迫るまたとない機会となりました。冷戦終結から6年余りの歳月がたち、「過去」を冷静に見つめることのできる環境が整ってきたこともあって、近年、歴史家や学者などの間でこうした作業が進められてきております。
 すでに幾つかの著作が世に問われていますが、それらに共通して見られる認識は、冷戦後に噴出した諸問題を精査していくと、その考察は「20世紀」という時代そのものにまで行き着かざるをえないという点にあるといえます。イギリスの歴史家E・ホブズボーム氏が94年に発表した大著『極端の時代』などは、その一つに数えられましょう。これまで19世紀の歴史を3部作(『革命の時代』『資本の時代』『帝国の時代』)にまとめあげたこともある氏によれば、フランス革命の始まった1789年から1914年にまたがる「長い19世紀」は、物質的、知的、精神的レベルでほぼ絶え間ない進歩を成し遂げた時代だったが、その後に続いたのは第1次世界大戦の勃発で始まり1991年のソ連崩壊で幕を閉じる「短い20世紀」であったといいます。 氏はそのうえで、この「短い20世紀」の特徴を、あらゆる領域でそれまで当然のこととされてきた基準が後退し、生産と破壊の全面で「極端」への傾向が高じた点にある、と分析したのでした。(『20世紀の歴史』河合秀和訳、三省堂。引用・参照)
2  確かに私たち人類は、19世紀とは比較にならないほどに量的にも質的にも「極端化」した形で――2度にわたる世界大戦は申すまでもなく、ナチスによるホロコーストや旧ソ連でのラーゲリ(収容所)、パレスチナなどでの大量難民やカンボジアにおける大虐殺など――絶えず悲劇が繰り返されてきた20世紀の歴史を目の当たりにしてきたといえます。
 私もこれまで数回にわたり、「戦争と暴力の世紀」であった20世紀を乗り越えるための方途を「提言」の中で論じてきましたが、真に問題とすべきはその悲惨さが身にしみているにもかかわらず、流転の歴史から一向に脱却できないでいる、人間の"愚かさ"なのではないでしょうか。
 M・ゴルバチョフ氏(元ソ連大統領)も、私との間で現在進めている対談集の中で、「すでに手遅れとなって、はじめて、人々は耳を傾ける気になるのが常であるという事実こそが、今世紀の悲劇である」(『二十世紀の精神の教訓』。本全集第105巻収録)と指摘されましたが、「極端化」の加速が止まらない以上、もはや人類がそうした"愚行"を繰り返す余地は残されていないのであります。冷戦後もなお、ルワンダや旧ユーゴスラビアなどで目を覆うばかりの惨劇が繰り返される現実を前にするとき、単に一人の人間として心を痛めるだけでなく、まさに人間の"業"ともいうべきテーマを正面から掘り下げていくことなくして、"非人間性"に彩られた悪夢のような「20世紀」を克服するすべはないと、私は痛感するのです。
3  「分断」のエネルギー止める道を
 来るべき21世紀、「第三の千年」の人類史を、これまでと同様に暴力と流血で染めてはならないし、非人間的な行為を正当化させる"狂信"を跋扈させてはならない、と私は強く訴えたい。こうした「悲劇」が繰り返されるたびに人類が贖ってきた代償は、あまりにも大きかった。その苦々しい"20世紀の精神の教訓"を無にすることなく、今再び猛威を奮っている「分断」のエネルギーを克服し、環境や貧困といった山積する「地球的問題群」に向けての"人類共闘"の足場を築き上げていくことこそ、21世紀までの残りわずかの間に、私たち人類が取り組むべき最優先の課題ではないでしょうか。
 この"人類共闘"という難題を前にする時、私の脳裏には故A・ペッチェイ博士(「ローマクラブ」創設者)が対談集『二十一世紀への警鐘』(本全集第4巻収録)で、"責任と慈愛をもって、次の世代に「生きる道」を準備してあげなければならない"と呼びかけた言葉が思い起こされます。

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