Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

春季彼岸勤行法要 妙法は太陽! 生死の闇を照らす

2006.3.21 スピーチ(2006.1〜)(池田大作全集第100巻)

前後
1  彼岸は「生命の元旦」「三世の勝利への出発」
 きょうは「春分の日」。彼岸の中日である。
 私は、ここ東京牧口記念会館で、広宣流布という最高無上の人生を生きぬき、亡くなられたすべての同志の方々、また先祖代々の諸精霊の追善回向を懇ろに行わせていただいた。
 また、全同志とご家族、友人の皆さまが、三世永遠にわたって安穏と福徳に包まれるよう、真剣に祈念させていただいた。
 彼岸の中日には、太陽がほぼ真東から昇り、真西に沈む。昼と夜の長さが同じになり、春の彼岸からは昼が、秋の彼岸からは夜が、日一日と長くなっていく。
 地球の一年の運行の節目である。大宇宙を貫く妙法とともに生きる私たちは、この日を「生命の元日」「三世の勝利への出発」との思いで、進んでまいりたい。
2  妙法の「受持」こそが成仏への道
 「彼岸」の意義については、これまで繰り返し語ってきたが、あらためて皆さまと確認しておきたい。「彼岸」「向こう側の岸」。「此岸(とちら側の岸)」との対比で用いられる。
 仏法では、生死や煩悩の迷いの世界を「此岸」に譬え、解脱・涅槃・成仏の悟りの境涯を「彼岸」と表現している。
 宗教・哲学一般でも、「彼岸」は、より広く「真理を悟った境地」「日常からの超越」などの意味で用いられる。たとえば、ニーチェの有名な著作の一つは『善悪の彼岸』と訳された。
 また彼岸は、成仏の境涯を指すとともに、そうした境涯に到る「修行」「実践」の意味も含んでいる。すなわち「到彼岸(彼岸に到る)」である。
 大乗仏教では、成仏の境涯に到るための修行に六つの行を立て、これを「六波羅蜜」と呼ぶ。
 具体的には「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」である。
 「波羅蜜」とは梵語(古代インドの文章語)のてパーラミターの音訳であり、これを意訳すると「到彼岸」となる。法華経の名訳で知られる鳩摩羅什の解釈によるといわれる。法華経序品にも「通達大智、到於彼岸(大智に通達し、彼岸に到り)」(法華経七二㌻)と説かれている。
 日蓮大聖人は「観心本尊抄」で、無量義経の「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雄も、六波羅蜜は自然に在前し」(法華経五三㌻)等の文を引かれつつ、「これらの文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足しているということであり、私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持すれば自然に釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである」(御書246㌻、通解)と仰せである。
 私たちは、妙法を「受持」、すなわち心から信じ、自行化他の実践を貫くことによって、六波羅蜜の一つ一つを修行しなくても、同じ修行の功徳を得て、「彼岸に到る」、すなわち成仏の境涯を得ることができるのである。
3  真の追善は広布の実践
 しかし今日では、こうしたもともとの意義を離れて、「彼岸」は、春分、秋分をはさむ七日間に行われる「彼岸会」、また、その季節のことを指す場合が多い。
 彼岸会は日本独特の年中行事で、聖徳太子の時代から始まったともいわれる。
 春分、秋分の行事としてあった各地の先祖祭りや農耕儀式と一体化して、江戸時代に寺・墓まいりが盛んになったという。
 太陽に豊作を願う「日願」に由来するとの説もある。
 また彼岸会は、西方浄土思想の広がりにともなって定着したといわれる。春分、秋分には太陽が真西に沈むので、西方浄土を願い求める契機と考えられた。
 しかし、もとより、彼岸は、西方浄土など、他の世界に求めても得ることはできない。妙法を受持し、実践することによって、わが胸中に仏界を顕し、この現実世界を常寂光土と輝かせていけるのである。
 御書に「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う」と仰せのとおりである。

1
1