Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

最高協議会 生涯、師弟の道に徹しきれ

2006.2.19 スピーチ(2006.1〜)(池田大作全集第100巻)

前後
1  戦いぬく! その心を継承
 原点に返れ! ここに、すべての発展の道がある。
 学会が八十周年へ新しい道を開きゆく今、大事なのは、創立以来の原点である「師弟」の道に徹することである。一生涯、師弟の道に徹しきる。その輝く模範を、先輩は後輩のために残していっていただきたい。
 きょうは、大切な思師の指導に学び、また未来への指針となる御聖訓を拝したい。
 戸田先生は言われた。
 「われわれには信心があるのだといって、手をこまねいていれば、油断がおきる。戦いには必ず相手がいるのであって、慎重に万全の対策を立てるべきだ。
 四条金吾が敵に狙われて危険な状況にあったとき、日蓮大聖人は至れり尽くせりのご注意を、こまごまと、おしたためになられたではないか。まさに『用心あるべし』の御金言を噛みしめるべきである」
 戸田先生は戦時中、投獄され、軍部権力と戦いぬかれた。ひとたび難にあうと、てのひらを返したように裏切る者がいた。師を罵倒し、去っていく者もいた。それを語る先生の声は憤怒に燃えていた。学会のおかげで偉くなりながら、傲慢になり、同志を苦しめる人間には、「恩を知らない、不知恩の輩だ」「学会よりも、自分のこと、個人のことを大事にする連中だ」と激怒された。
2  「心の毒気」を吹き払え
 先生は、学会のうるわしい和合を破ろうとする者がいたならば、青年部が、ただちに戦えと厳命された。
 「いくら立派そうに見えても、悪に対して、弱い人間、悪と戦わない人間は、結局、ずる賢い人間だ」
 これが恩師の未来への警鐘であった。最高幹部の皆さまであるゆえに、あえて厳しく言い残しておきたい。悪と戦わなければ、悪を容認し、悪に加担するのと同じである。それは、すでに師弟を忘れ、信心を食い破られた姿だ。その根底は、「臆病」であり、「保身」であり、「背信」である。その「心の毒気」は、いつしか蔓延し、尊き信心の和合を壊していく。
 「もう、これくらいでいいだろう」――そんな中途半端な心が毛筋ほどでもあれば、悪の根を断ち切ることなどできない。毒気は断じて一掃し、吹き払わねばならない。「戦う心」が清浄な伝統をつくる。最後の最後まで、邪悪をすべて根絶するまで、正義を叫びぬく。この戦う学会精神を、身をもって未来に継承していただきたい。
 「学会に腰抜けの人間はいらない。悪への怒りなき者は去れ! 私は、最後の一人になっても戦う!」
 これこそ、惰弱な幹部に対する戸田先生の痛烈なる叫びであった。
3  退転者の末路は御書に明らか
 日蓮大聖人の仏法は、「一人の人間革命」を成し遂げ、ついには全人類の宿命の転換をも可能にする「希望の大法」である。しかし、せっかく、この大仏法にめぐりあいながら、何か起こると、心ゆらぐ弟子もいた。いくら大聖人が弟子たちのために真剣に析られでも、弟子のほうが「不二の心」でなければ、祈りはかなわない。
 御書には、こう仰せである。
 「あなたがたはそれぞれに、日蓮の大切な味方である。ところが、私が頭を砕くほど真剣に祈っているのに、今まで明らかな現証がないのは、このなかに心の翻る人がいると思われるのである。思いの合わない人のことを祈るのは、水の上に火をたき、空中に家を建てるようなものである」(御書1235㌻、通解)
 御書には、信心退転の者の末路が、いかに悲惨であるか、繰り返し述べられている。それは、断じてそうなってはならないとの厳愛の御指導と拝せよう。
 身は退転していなくても、心が退転している者。
 自分が退転するだけでなく、同志を悪道に転落させる者。
 あろうことか、師匠を誹謗し、広宣流布を破壊する者。
 そうした人間の姿が、御書に厳然と留められている。少々、長くなるが、心して拝したい。
 「法華経を経文のように持つ人々であっても、法華経の行者を、あるいは自分の貪り・瞋り・癡の三毒の煩悩のために、あるいは世間的なことに寄せて、あるいはさまざまな行動を見て、憎む人がいる。この人は、法華経を信じていても、信ずる功徳はない。それどころか、かえって罰を受けるのである」(御書1247㌻、通解)
 「この法門についた人は数多くいたけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年、二年はついてきたものの、後々には、皆、あるいは退転し、あるいは反逆の矢を射た。また、あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ちてしまった」(御書1180㌻、通解)
 「はじめは信じていたのに、世間の迫害が恐ろしくて、信心を捨てた人は数知れない。そのなかには、もとから誹謗していた人々よりも、かえって強く誹謗する人々もまた多くいる。仏(釈尊)の在世にも、善星比丘などは、はじめは信じていたけれども、後に信心を捨てたばかりでなく、かえって仏を誹謗したゆえに、仏の大慈悲をもってしても、いかんともしがたく、無間地獄に堕ちてしまった」(御書1088㌻、通解)
 「日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのような大難(佐渡流罪)にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分のほうが賢いと思っている。このような歪んだ心の者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちたままになることは、不憫としか言いようがない」(御書960㌻、通解)
 「(歪んだ心の者たちが)『日蓮さんは私たちの師匠ではあられるが、あまりにも強引だ。私たちは(師匠と違って)柔らかに法華経を弘めましょう』と言うのは、ホタルの光が太陽と月を笑い、蟻塚が華山(約二千メートルの中国の名山)を見下し、井戸や小川が大河や大海を軽蔑し、小鳥のカササギが偉大な鸞鳳と鳳凰を笑うようなものである、笑うようなものである」(御書961㌻、通解)
 いまだ勝れた法を得ていないのに、それを得たと思いあがる。この「増上慢」を仏法は厳しく戒めている。「開目抄」には「智慧がない者は、増上慢を起こして、自分は仏と対等だと言う」(御書226㌻、通解)との摩訶止観の言が示されている。惰性になるな! 我見になるな! 増上慢になる! この大聖人の叫びを、断じて忘れてはならない。

1
1