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日蓮大聖人・池田大作

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秋季彼岸勤行法要 妙法の信仰が最高の追善回向

2005.9.23 スピーチ(2005.8〜)(池田大作全集第99巻)

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1  「彼岸」の意義を語る
 実りの秋を迎えた。「健康第一」で、生き生きと、黄金の一年の総仕上げを飾り、栄光の人生の年輪を刻んでまいりたい。きょうは、「彼岸」の中日にあたる。私も、代表の同志と、東京牧口記念会館で、全同志の先祖代々の諸精霊、また、亡くなられたすべての会員の方々の追善回向を、懇ろに行わせていただいた。全国の会館で秋季彼岸勤行法要が行われ、また各地の墓園にも多くの方々が墓参に見えておられる。
 この「彼岸」の意味について、真剣な求道の息吹に燃える、新入会の青年たちから、質問が寄せられている。「彼岸」という言葉は知っていても、その意義については、知っているようで知らないことも多い。これまでも何度か紹介してきたが、この機会にあらためて少々、論じさせていただきたい。
2  「彼岸」とは、梵語の″パーリマン・ティーラン″の漢訳で、文字どおり、「彼方の岸」「向こうの岸」という意味である。
 仏法では、迷いに満ちた現実の世界を「此岸」(こちらの岸)に譬える。それに対して、悟りの世界、仏道修行の完成を、「彼岸」という言葉で表すのである。
 すなわち、真の「彼岸」、成仏の完成に至るためには、現実の迷いや悩みに打ち勝つ「修行」が不可欠なのである。この点を忘れてはならない。
 ゆえに、″坊主に拝んでもらわなければ、お彼岸にならない。供養にならない″などという考えは、完全な″迷信″にすぎないのである。
 (大乗仏教における菩薩の修行法に「六波羅蜜」がある。この「波羅蜜」は梵語の″パーラミター″の音写で、「到彼岸」〈彼岸にいたる、の意〉と漢訳される)
 日蓮大聖人は、「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」と仰せである。
 妙法を持ち、広宣流布に生きぬく創価学会員こそ、「生死の大海」に満ちる苦悩の荒波を乗り越えて、「幸福の彼岸」「勝利の彼岸」へ到達することができるのである。
3  また、「回向」の本義について、大聖人は「御義口伝」で次のように述べておられる。
 「今日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向えこうの文此れより事起るなり
 妙法の題目は、全宇宙を照らしゆく力を持っている。その慈悲の大光は、無間地獄にまで至るとの、大聖人の大確信である。
 いかなる権力でも、いかなる財宝でも、いかなる科学でも、成し得ないことがある。それが一生成仏であり、故人への追善回向である。
 回向の根本は、自分自身が御本尊を信じ、広布に励むことである。自身が仏道修行で得た功徳を「廻し向ける」ことが、「回向」の本義であり、真の追善となるのである。
 ともあれ、「彼岸」にせよ、「回向」にせよ、「自分自身の仏道修行」という一点を忘れてしまえば、本来の意義から外れてしまう。
 私たちは最高無上の生命の軌道を、久遠からの同志とともに、歓喜に燃えて歩んでまいりたい。

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