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日蓮大聖人・池田大作

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第三十八回本部幹部会、第八回全国青年部… 歌え! 舞え! 民衆勝利の讃歌を

2004.5.18 スピーチ(2004.1〜)(池田大作全集第96巻)

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1  一人一人の青年で、一切が決まる
 偉大なるアメリカSGIをはじめ、世界の同志の皆さん、遠いところ、ようこそ! ご苦労さま!
 きょうは、リラックスして、楽な気持ちで聞いていただきたい。
 わが創価学会は、男女青年部が、たいへんに成長してきた。
 私はじっと見守り、待っていた。
 学会の未来は、青年部によって決まる。次の世代を担う態勢が、完全にできあがったと宣言したい。
 青年には未来がある。青年には、無限の力がある。そして長い人生がある。ゆえに、青年を育成し、青年を大事にし、青年にバトンタッチしていく流れを着実につくったところは、会社も、社会も、国も、全部、成功する。
 創価学会も、そうであった。この点、戸田先生の打たれる手は、本当に絶妙であった。戸田先生の時代、私たち青年部は、がっちりと訓練を受け、立ち上がった。
 私は、師匠の心に応えた。だから、創価学会は世界的に発展したのである。
 広宣流布の潮流を起こしてきた世代に続く、いわば「第三の波である現在の青年部は、完璧に組み上がった。日本一、世界一の布陣ができあがった。
 あらゆる世界で、未来を決定づけるのは、すべて後継者である。どれほど青年が大事であるか。
 一人一人の青年で、一切が決まるのである。
2  学生たちに広まった歌
 さて、皆さんは、「デカンショ節」をご存じだろうか。
 「デカンショデカンショで半年暮らす/あとの半年ねて暮らす」
 戦前、学生たちの間で流行した歌である。(とくに明治時代後半から大正時代にかけて流行)
 もともとは、江戸時代から、兵庫の丹波篠山の地方で、盆踊り唄として親しまれてきたものと言われる。それが、形を変え、全国の学生に広まったのである。
 この「デカンショ」に、当時の学生たちは、ヨーロッパを代表する二人の大哲学者の名前をあてはめた。
 すなわち、「デ」はデカルト、「カン」はカント、「ショ」はショーペンハウアーである。
 ご存じのように、デカルトは十七世紀のフランスで活躍し、「近代哲学の父」と称される。
 「われ思う、故にわれあり」とは、彼のあまりにも有名な言葉である。
 人間精神を深く探究したデカルトは、高慢な人間、忘恩の人間、臆病な人間を厳しく戒めてもいる。
 また、ドイツのカントは十八世紀に生まれ、ちょうど今年(二〇〇四年)が、没後三百周年となる。
 牧口先生は、牢獄で亡くなる前までカントの哲学を精読されていた。カントから発した「真・善・美」の哲学を包み込みながら、牧口先生は独創的な「美・利・善」の価値論を生みだされた。
 ヨーロッパで、いち早く「法華経」に着目したのも、カントであつた。
 (カントは、日本人について、「彼らの宗教書は花の本〔=妙法蓮華経〕と呼ばれる」と述べている。〔『自然地理学』、『カント全集』15〈三枝充意訳〉所収、理想社〕)
 カントは、人間の自由と尊厳を希求した。「永遠平和」をめざした。彼は、善なる人間が結合すべきだ、根源的な悪に勝利していくべきだと論じたのである。
3  「実践者」と語りあいたい
 さらに、十九世紀――ドイツのショーペンハウアーは、ヨーロッパでいち早く仏教を受容した知性として名高い。
 そうした志向性を、さらに大乗仏教の真髄へと深められたのが、トインビー博士であった。
 (トインビー博士は、日蓮大聖人の仏法の世界性に注目し、こうつづっている。
 「〈日蓮大聖人は〉自分の思い描く仏教は、すべての場所の人間仲間を救済する手段であると考えた」「創価学会は、人間革命の活動を通し、その日蓮の遺命を実行している」〔英語版の小説「人間革命」第一巻「序」〕)
 トインビー博士は、若い私を大乗仏教の実践者として大事にしてくださった。どうしても会いたいと伝えてこられた。
 博士は心臓に持病をかかえていた。無理は禁物であった。しかし、ぜひとも会って語りあいたい――この博士の熱望があって、対談が実現したのである。
 ロンドンの博士の自宅で、長いときには朝から夕方まで、毎日のように語りあった。ともに近くの公園を散策した。妻も一緒であった。
 人類の未来のために、思いは厳粛であった。
 世界一の学者との真剣勝負の対話は、今も私の誉れである。

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