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日蓮大聖人・池田大作

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東京・東海道・東北代表協議会 私が行こう! いちばん大変な所ヘ

2002.8.25 スピーチ(2002.8〜)(池田大作全集第94巻)

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1  青年よ広布の歴史に名を残せ
 「青年の時代」が来た。各地の青年部の新出発に、私は心から期待したい。
 私も、五十年ほど前に、東京の本陣で、男子部の第一部隊長に就任し、戸田先生より、部隊旗を直接、授与していただいた思い出が懐かしい。
 青年部時代から、私がつねに心に刻んできたのは、「いちばん大変な所へ、自分が行こう! いちばん大変なところで、自分が戦おう!」という精神であった。
 二十四歳の時、私は東京の大田で立ち上がった。蒲田支部の支部幹事として、広宣流布の突破口を開いた。
 同じ年の夏、私は大阪へ向かった。ここから、愛する関西と私との共戦が始まった。
 大田と、その近くの横浜の鶴見区と、両方の法戦の指揮を執ったこともある。二十七歳の勝利の歴史である。
 青春時代、私は体が弱かった。そのうえ戸田先生の事業は挫折。給料のない時期さえあった。
 そのなかで、私は学会を支えた。どこまでも戸田先生にお仕えした。学会を圧迫する傲慢なる権力に対しても、厳然と正義を師子吼した。
 だれが見ていなくとも、一人、師を守り、友を守り、新しい広布の道を開く。それを五十五年間、貫き通して、今日の学会を築いてきたのである。
 どうか、私の直系である青年部の皆さんは、広宣流布という尊い歴史に、誉れの名を残していっていただきたい。
2  正義を力説せよ
 仏典には、こんなエピソードが説かれている。(以下、南伝大蔵経、増支部教典を参照)
 ――ある朝早く、釈尊の一人の在家の弟子が、師・釈尊のもとで仏法を学ぼうと、はつらつと家を出た。真剣な求道の彼は、師のもとへ馳せ参ずる前に、正義の対話を敢行しようと、みずから外道(インドで、仏教以外の教え、ならびにその信奉者を呼んだ語)のもとへ足を運んだ。
 に気づいた外道の顔羅理がちは、たがいに示し合わせて、釈尊を釈尊の弟子が向かってくるの一
 誹謗する言葉を浴びせてきた。
 「君の師匠のゴータマ(釈尊の俗姓)は極論の持ち主で、あらゆる苦行者を厳しく責め、そしっているそうだな」
 弟子は、即座に反論した。
 「いいえ。それは間違いです。釈尊は、叱り責めるべき者は叱り、賞讃すべきものは賞讃するというように、立て分けておられます」
 今度は、別の外道が、からんできた。
 「お前が賞讃するゴータマは、世間のことも、手当たり次第、何でもかんでも否定しているというではないか」
 彼らの言うことは、すべてが、偏見と悪意の非難であった。
 釈尊の弟子は、ただちに、敢然と打ち返した。
 「釈尊は、して良いことと悪いことを、しっかりと区別されておられます。あなたたちの言うことには、何の根拠もないではないですか!」
 正々堂々とした、気迫あふれる真実の言論の前に、外道たちは黙り込み、思わず下を向いた。そして恥じ入り、すっかり意気消沈してしまった。
 その姿を見届けると、誇り高き弟子は、意気揚々と師・釈尊のもとに駆けつけ、この勝利を報告した。
 釈尊は、「善き哉、善き哉」と賞讃し、「このように、愚人をば、法をもって、よく破折せよ!」と説かれたのである。
3  思えば、入滅を前にした釈尊が、最も喜んだことは何であったか。
 それは、「法華経の敵を討ちます!」という、燃え上がるような、弟子たちの闘争の誓いであったと御書には仰せである。(「祈祷抄」一三五一ページなど)
 かつて戸田先生は、「たとえ、きょう入会したばかりの人であれ、ひとたび創価学会員として法論にのぞんだならば、断じて負けてはならない」と叱咤激励された。
 牧口先生も、「毀誉褒貶を顧ず、大に訴えねばならぬ」(『牧口常三郎全集』8)と言われている。
 さらに牧口先生は、″今後さらに「不自惜身命」の決心をもって、いよいよ正義を力説するつもりである。だれかが言わねば、社会は決して改まることはないからである″と断言されている。(同全集5,趣意)
 これが、不滅の学会精神である。

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