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日蓮大聖人・池田大作

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第十九回本部幹部会、第二回信越総会 青年は勇気で勝て 気迫で勝て 言論で勝て

2002.7.25 スピーチ(2001.8〜)(池田大作全集第93巻)

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1  中国から日中国交三十周年記念のレリーフが
 暑いなか、遠方から集まってくださり、皆さん、本当に、ご苦労さま! 本当に、ありがとう!
 きょうは、懇談的に話をさせていただきたい。どうか、ゆったりとした気持ちで聞いていただきたい。
 次回の本部幹部会は、北海道栄光総会、ならびに中国青年平和総会の意義をこめて行われる。その席上、中国・陝西せんせい(シェンシー)省の彫塑院ちょうそいんから、周恩来総理夫人の鄧穎超先生と私たち夫婦を刻んだレリーフ(浮彫)をお贈りいただく儀式が挙行される予定になっている。
 この堂々たるレリーフは、本年の日中国交正常化三十周年を記念して制作してくださったと、うかがっている。本当に、ありがたいことである。
 二年前にも、周総理と私との会見の様子をレリーフに刻んで、贈っていただいた。そのレリーフは、現在、全国を巡回している″周恩来展″で展示されており、皆さんも、よくご存じのことと思う。
2  牧口先生、獄中の崇高なる最期
 先日、牧口先生の三男・洋三さんの夫人である金子貞子さんが、牧口先生の最期の様子について、貴重な証言をしてくださった。きょうは、歴史に残す意味でも、そのお話を皆さんに紹介させていただきたい。
 貞子さんのご主人の洋三さんは、昭和十九年八月に戦死された。残された貞子さんは、当時、獄中におられた義父の牧口先生を最後までお世話された。先生の精神を受け継いで、今日まで、しっかりと信心を貫いてこられた立派な方である。
 貞子さんは、こう語っておられる。
 「じつは、牧口先生が亡くなられた(昭和十九年の)十一月十八日の前日、東京拘置所から、先生の危篤を知らせる電報がまいりました。その電報は、夕方、薄暗くなったころに届きました。私は、すぐに拘置所に向かいました」
 (この日、貞子さんは、牧口先生への差し入れの準備のため、疎開先から目自の先生の自宅に戻っていて、この電報を受け取った)
 「拘置所に着くと、看守の方が、その日の牧口先生の様子を語ってくださいました。すでに真っ暗になっていたので、おそらく、時間は、午後七時くらいではなかったでしょうか」
 (看守は、重体の牧口先生に、再三にわたって病監に移ることを勧めたが、先生は頑として拒否し続けていた。ようやく、この日、牧口先生は、病監に移りたい旨を申し出て、午後三時ごろ、歩いて病監に移動した。七十三歳の高齢の体は、長期の独房生活で、すでに極限の状態にあったのである)
 「看守の方によると、病監に移るとき、看守が『おぶってさしあげましょう』と言うと、牧口先生は『とんでもありません。私は歩いて行きます』と、ふらふら、途中、何回か転びそうになりながらも、みずから歩いて病監に行き、そこで眠りにつかれたそうです」
 貞子さんは、病監で眠っている牧口先生と対面された。
 「私は、何回か『おとうさん』と呼びかけましたが、返事はありませんでした。私は心配になって、足袋や下着をそっと確認したところ、いずれも、きれいなものに着替えていらっしゃったので、牧口先生は、覚悟のうえで、ここにいらっしゃったのだと思いました。
 枕の下には、きちんと手紙が重ねて置いてありました。ご立派なその姿を通して、いろいろと教えていただいたことが忘れられません」(この日、貞子さんは終電車で自宅に戻った。そして、翌十八日の午前六時ごろ、牧口先生は静かに息を引き取り、偉大なる生涯の幕を閉じた)
 「拘置所から、日自の自宅まで、牧口先生のご遺体を背負って歩いてきた方が、『背中がとてもあたたかかった。そして柔らかかった』と言ったことを、たいへん印象深く覚えています」
3  師の正義を証明するのが弟子
 これが、創価の父である牧口先生の崇高なる殉教のお姿である。牧口先生は、傲慢な国家権力によって、非道にも獄死させられた。
 戸田先生は、そのことを、片時も忘れられなかった。そして、その話になると、いつも涙し、怒りに全身を震わせて、「おれは絶対に師の仇を討つ。師の正義を証明してみせる。それが弟子ではないか!」と叫ばれたのであった。
 私も、牧口先生、戸田先生のおっしゃったことは、どんなことも実現してきた。そして、厳然と師匠の仇を討ち、事実のうえで、師匠の正義を世界に宣揚してきた。それが、本当の「師弟の道」であり、「人間の道」であると確信するからである。(拍手)
 貞子さんは、こうも語ってくださった。
 「ともかく、牧口先生は『自分は小さいときから、学校教育にはたいへんに苦労した。だから行きたくても行けない人のために、奨学金を出してあげて、大学まで行けるようにしてあげたい』と言っていました。
 ですから、牧口記念教育基金会が奨学金制度を始めたときには、『おとうさんのおっしゃったとおりの制度ができた』と感動しました」
 「牧口先生が念願されていた、幼稚園から創価大学まで、それもアメリカ創価大学まで、池田先生がつくってくださったことが、うれしくて、うれしくて、こんなにうれしいことはありません」
 創価教育にたずさわる、すべての方々への励ましとして、また貴重な歴史の記録として、紹介させていただいた。

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