Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

東京・大田最高協議会 大田よ、「師子王の心」で立て

2000.9.24 スピーチ(1999.10〜)(池田大作全集第91巻)

前後
1  生き生きと東京革命の模範たれ
 懐かしい故郷・大田の代表の皆さまとお会いでき、私は本当にうれしい。
 仏法は、戦い抜いた人間が仏になる。御聖訓には「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」と仰せである。不惜身命で、法のため、人のため、広宣流布のために戦った人間が仏になる。
 「仏法は勝負」である。勝つことが広宣流布である。なかんずく、リーダーが真剣勝負かどうかである。私も、一日で十日分、二十日分の歴史を残すのだとの思いで生き抜いてきた。一日一日、ベストを尽くして努力してきた。
 長が真剣であれば、死身弘法の行動があれば、本末究竟して、皆が、生き生きと前進していける。希望がわく。歓喜がわく。清らかな生命の泉に包まれていく。
 大田が東京革命の先陣をきっていただきたい。堂々とそびえる富士のごとく、「大田を見よ」と皆が仰ぎゆくような、見事な「大東京の模範」となっていただきたい。
 「今こそ、大田よ、立ち上がれ」と、私は万感を込めて申し上げたい。
2  故郷の発展を祈り見つめて
 私は夜、一日の仕事を終え、入浴後、長男とさまざまなことについて、小一時間ほど語り合うのが、日課である。
 必ず、その日の日本、そして世界の各新聞を通し、またインターネットを通し、テレビ・ニュースを通し、読んだ本を通し、種々、情報を報告してくれる。
 先週の日曜日には、日本経済新聞に、わが大田の町工場に光を当てた記事が掲載されていることを、紹介してくれた。(「列島プラザ――東京・大田」、九月十七日付)
 大田は、日本を代表する中小製造業の集積地である。最盛期には、九千を超す工場があった。しかし後継者難に加え、宅地化や、工場の地方分散政策などの影響で、この十五年で、大田から約三千もの工場が姿を消した。
 現在、六千の工場が、「世界の町工場」の再生へ、新しいネットワークづくりに取り組んでいる。すなわち、「工場同士のきずなを深め、あらゆる受注に対応できる態勢を築くことで、大田区は新世紀に世界の″即応工場″を目指す」という内容であった。
 記事には、若き日、私が働いていた「新潟鉄工所」の名前も記されており、大変に興味深く、また感銘深く読んだ。なかなか訪れることはできないが、故郷・大田の繁栄を、私は、いつも祈り見つめている。
3  大田の工業化は、大正時代から始まった。その先駆けとして、大正七年(一九一八年)に設置された工場の一つが、新潟鉄工所である。
 私は、三番目の兄が勤めていた関係から、昭和十七年(一九四二年)四月、この鉄工所に入社した。十四歳の時である。油にまみれ、汗だくになって、旋盤を扱う危険な作業に、神経を張りつめながら働いた。近くにあった酒井分工場へ出向いたこともある。
 大田は、東京大空襲をはじめ、じつに十九回の空襲にあい、町工場も壊滅状態となった。その焼け野原から、たくましく立ち上がり、今日にいたる発展を成し遂げてきた。
 私も、戦後の一時期、下丸子にあった東洋内燃機に籍をおいた。さらに、戸田先生の経営する日本正学館に勤務する前、蒲田工業会の職員として働いた。
 蒲田工業会は、戦後、蒲田地区近くの中小企業工場の再建と復興を図るために設立されたものである。当時、少しでも、大田の繁栄のお役に立ちたいとの思いであった。

1
1