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日蓮大聖人・池田大作

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第34回本部幹部会、第4回関西青年部総… 青年よ、革命の炎を受け継げ!

1999.5.27 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

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1  ネルー首相は獄中から娘に教えた
 ようこそ! おおきに! 楽しく、やりましょう。(拍手)
 遠く中部、中国、四国、そして海外から来られた皆さまも、ご苦労さまです!(拍手)
 きょう五月二十七日は、インドのネルー初代首相が亡くなった日である。三十五年前(一九六四年)になる。
 戸田先生も、ネルー首相のことを「いっぺん会ってみたいな。会えば、すぐに話が通じるだろう」と言われていた。
 実際に会うことはなかったが、不思議にも、戸田先生の心は、時とともに実現されている。ここに仏法の厳しさ、偉大さがある。すなわち、弟子である私が、ネルー首相の孫にあたるラジブ・ガンジー首相ご一家と友情を築くことになったからである。
 首相は、日本での私との会見(八五年、迎賓館)の後、「日本人らしい日本人にお会いできた」と喜んでくださったという。残念ながら暗殺されてしまったが、夫人のソニア・ガンジー女史、令嬢のプリヤンカさんご一家との友情は、今も続いている。
 ネルー首相は昭和三十二年(一九五七年)十月に来日された。ここ京都にも来られて、日本庭園の″均整のとれた美しさ″に感嘆されたという記録がある。
2  ネルー首相は、若き日、革命闘争で投獄された。
 投獄されてこそ、本当の革命家である。革命に立ち上がれば、殺されたって、普通である。牢にも入らず、残酷な非難・中傷の集中攻撃も浴びない――そんな革命家など、ありえない。
 迫害がないのは、うまく適当に泳いでいるにすぎないからである。
 ネルー首相は、長い獄中生活を味わった。通算九回、約九年間におよぶ。
 しかし獄中から、娘のインディラさんに、手紙を送り、世界史を教えたのである。そこには「世界的な指導者になってほしい」との期待があったと思う。
 「子どもに、そんな大人の話がわかるだろうか」、そう思う人もいるかもしれない。しかし、じつは、子どもは大人である。真剣に話したことは、必ず通じていく。学会の家庭でも同じである。子どもの時から、学会の目的を、歴史を、「広宣流布」を教えることが大事なのである。
 インディラさんは、お父さんの投獄を機に、十三歳の若さで独立運動に参加した。(インディラさんは、ラジブ・ガンジー首相の母。後のインド第三代首相)
 お父さんは獄中から娘に書き送った。
 「われわれはごみを掃きすて、われわれの国から窮乏と、悲惨とをおい払わなければならない」(『父が子に語る世界歴史』1、大山聰訳、みすず書房)
 戸田先生も、「私は、関西から貧乏人と病人をなくしたいのだ」と。
 方程式は同じである。心は同じである。苦しい民衆の「現実をどうするか」である。抽象論ではない。観念論ではない。
 「われわれの眼前にある大きな仕事に協力することを拒む人たちの心の中にはった、くもの巣をはらわねばならない。それは大仕事だ。それをなしとげるには時間がかかるかもわからない。われわれはそのために、せめてひとおしでもわれわれの力をささげよう。――インクィラーブ・ズィンダ・バッド(=革命万歳)!」(同前)
 広宣流布も「大仕事」である。この聖業に協力しようとしない人たち。その心の中の″くもの巣″を払っていかねばならない。″そのために、たとえ一押しでも、自分にできるかぎりのことをやろう! 力を捧げよう!″
 それが革命精神である。広宣流布の精神である。広宣流布こそが「最高の革命」なのである。ゆえに、ここに身を投じていく人生が「最高に尊い」人生である。
3  「激流」の中で、自分を鍛えよ!
 二十一世紀は、もう目の前に来た。すべて青年部が広宣流布の先陣を切っていく時がきた。
 その大闘争の源泉こそ関西である――そう自覚して、この地から「二十一世紀への革命の波」を、うねらせ、ほとばしらせ、巻き起こしていただきたい。
 表面は穏やかな「波」であっても、底流では、ごーっと「激流」が走り、走り、広がり続けている。そういう京都であり、関西であってもらいたい。
 激流のごとく走り抜いて、人を生かし、人を救う「妙法の新撰組」であってもらいたい。(拍手)
 「強き人はよく耐える、よく耐える人を強者という」(『新渡戸稲造全集』7,教文社)
 新渡戸稲造氏の言葉である。氏は、牧口先生と大変に親しかった。世界的に有名な学識者である。
 「耐える人」が強者である。人格者である。勇気の人である。仏法でも「仏」のことを「能忍」――「能く忍ぶ」人という。
 耐えられないのは、意気地なしであり、卑怯者である。学会から離れていった人間が、そうであった。自分を飾る理屈はうまくても、いつも苦労を避けていた。難を自分が受けていく覚悟など、とうてい、なかった。

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