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日蓮大聖人・池田大作

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アジア平和文化会議 世界広宣流布の土台は完璧

1999.2.20 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

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1  広布の活動はすべて功徳に
 アジアの代表の皆さま、メンソーレ!(沖縄の言葉で「ようこそ!」)
 歴史的な第一回「アジア平和文化会議」、まことに、おめでとうございます。
 また沖縄の皆さまには、いつも変わらぬ真心で、本当にお世話になり、心から感謝申し上げたい。
 韓国も、フィリピンも、また台湾も、そして香港も、マカオも、見事なる広宣流布の大発展である。また本日は、アフリカのザンビアの代表も出席されている。各国・各地域とも、わがSGI(創価学会インターナショナル)は「良き市民」のスクラムを広げ、大いに社会に貢献し、絶大なる信頼が寄せられている。
 青年部の成長も、目ざましい。これほど、うれしいことはない。
 「顕仏未来記」には、「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」と仰せである。
 御本仏のこの未来記の通りに、私たちは、また皆さま方は、「仏法西還」を堂々と、また厳然と成し遂げてきた。戸田先生が悲願とされた東洋広布、そして世界広宣流布の土台は、いまや完璧にできあがったと、私は宣言したい。
 いずこの地でも、末法万年尽未来際へ、「自行化他」の正しき仏法の流れが、限りなく続いていくことは間違いない。その源となり、礎となりゆく皆さま方が、どれほど偉大であるか。その功徳が、どれほど絶大であるか。
 大聖人は、「国中の諸人・一人・二人・乃至千万億の人・題目を唱うるならば存外に功徳身にあつまらせ給うべし」と仰せである。
 学会活動には、一切、ムダがない。全部が功徳に変わる。苦労した分、「煩悩即菩提」で、すべてが、よりよき方向へと向かっていく。後になるほど、功徳が厳然と現れてくる。また、子々孫々に、大功徳となって流れ伝わっていく。これが、「冥益」という妙法の法理である。
2  沖縄とフィリピン・南洋諸島は共通の文化圏
 沖縄は″アジア広布の要″である。那覇に、コンパスの中心を置くと、東京も、香港・マカオも、そしてマニラも、ほぼ同じ円の上にある。その円の中に、言うまでもなく、韓国も台湾も入っている。
 先日、私は、皆さまを代表して、ここ沖縄研修道場で、ミンダナオ島にあるフィリピンの名門カガヤン・キャピトル大学から、第一号の「全体人間賞」をお受けした。
 沖縄は、フィリピンとの交流も深い。黒潮は、フィリピンから、台湾を通り、沖縄諸島にかけて北上する。黒潮にのって、フィリピンや南洋諸島の文化が沖縄付近にまで伝わり、一つの共通した文化圏を形成したとする学説がある。
 一九五四年には、沖縄・八重山の貝塚で、特殊な土器や石器が発掘された。イモの耕作に使用されたものらしく、南方の「イモ耕作」の文化が、黒潮で北上して沖縄に伝わった例とも見られている。
 沖縄の古語では、イモは「ウンモ」、南洋諸島では「ウビ」と、これも似ている。
 また琉球音楽の音階は「ド・ミ・ファ・ソ・シ・ド」。「レ」と「ラ」がない。日本では、沖縄にしかない特殊な音階である。それと似た音階が、フィリピンにも見られる。フィリピンのタガログ語と沖縄語の類似性も指摘されている。
 琉球王国は、十五世紀ごろから、フィリピンのルソン島で交易していた。十七世紀の初頭、徳川幕府が朱印船貿易でフィリピンと交易したよりも、はるか以前のことである。
 一九〇四年には、沖縄からフィリピンへ、労働者として三百六十人が渡航。その後、沖縄の人々は、ミンダナオ島のダバオに移住した。そして、密林を切り開き、マニラ麻の栽培の発展に大きく貢献された。以来、ミンダナオ島は、沖縄からの移住地として定着し、移民が激増した。
 戦前、ダバオ在留の日本人は約二万人を数え、沖縄出身者が約七割を占めた。
 沖縄の人は漁業でも活躍し、沖縄独自の「追込網漁業」、また「カツオ漁」で大きな成果を上げたという。
3  沖縄の心「行き会えば、皆、兄弟」で平和を
 アジア諸国も、沖縄も、日本の軍国主義によって苦しめられた。
 「平和のいしじ」に刻まれた沖縄戦の戦没者は約二十三万七千三百人。フィリピンでは、戦争の犠牲者は、一説では約百十万人にのぼる。あの「バターン死の行進」では、約二万人の犠牲者が出たといわれる。
 その「悲劇の行進」から生還され、「平和の教育」に尽くしてこられたのが、「カガヤン・キャピトル大学」「バターン英雄記念大学」等の創立者ロサレス女史である。
 この大学建設には、″これからは、フィリピン人も、アメリカ人も、日本人も、皆が平和の英雄に!″――という崇高な願いが込められている。
 偉大な「教育の母」の一念は、バターンの戦争の悲劇から、平和の希望の学府を生み出した。
 この沖縄研修道場も、かつてのミサイル基地を、″平和の要塞″に転換したものである。

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