Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

全国県長会議 大誠実の振る舞いが学会の生命

1999.2.3 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

前後
1  一切は指導者で決まる
 県長会議、ご苦労さまです!
 初めに御書を拝したい。
 「一つ船に乗りぬれば船頭のはかり事わるければ一同に船中の諸人損じ・又身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり、日本国には・かしこき人人はあるらめども大将のはかり事つたなければ・かひなし
 ――一艘の船に乗り合わせれば、船頭の舵とりが悪ければ、乗り合わせた人々は皆、同じく命を落としてしまう。また、体が強い人であっても、心が、しっかりしていなければ、多くの能力も役に立たない。日本国には、賢い人々はいるだろうけれども、大将の舵とりが拙いために、(人材がいても)無駄になっている――。
 指導者とは「責任者」である。指導者は、一切を動かす「心」である。「魂」である。指導者で、すべて決まる。
 人材を生かすも殺すも、チャンスを生かすも逃がすも、全部、指導者しだいである。どうか賢明な、堂々たる指揮をお願いしたい。
2  周総理夫妻の共戦譜――革命は死なり
 一月二十六日から、神奈川の「戸田平和記念館」で、「日中提言三十周年記念展」が開催されている。
 (名誉会長による「日中国交正常化」に関する提言〈一九六八年九月八日〉の三十周年を記念。同提言は″日中友好なくして世界平和はありえない″との立場から、実行可能な諸構想を示し、難局にあった両国関係に活路を開いた。中国でも「六八年提言」と呼ばれ、評価されている)
 日中の友好は、幾多の民衆の努力の成果である。この記念展には、私が鄧穎超とうえいちょうさん(周恩来総理夫人)からいただいた、周総理の形見の「象牙のペーパーナイフ」や、鄧穎超さんが愛用された「玉製の筆立て」も展示されている。
 「中国人民の母」鄧穎超さんが、遺言のごとく語り残した貴重な文章が、最近、公表された。これは一九八八年四月、八十四歳の鄧穎超さんが、亡き夫である周総理に語りかける形で、尊い「共戦の生涯」を回想したものである。
 周総理が亡くなってから十二年後のことであった。そのなかに、次のような述懐がある。少々、長くなるが、そのまま紹介させていただきたい。
 「四人組が粉砕された後、祖国は、今まさに『改革開放』の花を咲かせております。それは、ますます素晴らしく、大きく、すくすくと育ち、豊かな大果実を結び、我々の国家を繁栄させつつ、我々人民に幸福をもたらしております。
 あなたは、まだ覚えておいででしょうか? はるか昔の当時、私たちの間で、雁書(手紙)を伝え合ったことを――。
 私たちの雁(手紙)が、ユーラシア大陸を飛び、海を越えて、麗しの都のパリから、渤海のほとりの天津にまで、やってきたことを――」
 (夫人が総理と結婚する前の二十歳前後のころ。総理はパリに留学中。夫人は天津で女学校の教師をしながら、総理らと結成した青年組織の中核として活躍していた)
 「私は、緑の衣の使者(郵便配達員)が、手紙を私の手元に届けてくれたことに、心より感謝したものでした。あるとき、私は突然、『リープクネヒト』と『ルクセンブルク』の像が写った絵はがきを受け取りました。あなたからです。
 あなたは、その絵はがきに、勇ましい革命の誓いを、したためておられました。
 『僕たち二人が、将来、彼ら二人のように、共に断頭台に上ることを望む』と」
 補足すると、カール・リープクネヒト(一八七一年〜一九一九年)は、軍国主義に抵抗した、ドイツの革命家である。
 また、ローザ・ルクセンブルク(一八七〇年〜一九一九年)は、戦争反対を訴えて、戦い抜いた女性革命家で、私もこれまで何度かスピーチしてきた。
 彼らは同志として戦い、一緒に捕らえられ、八十年前の一九一九年一月、ともに政府軍によって虐殺された。
 周青年は″この二人のように、自分たちも革命のために殉じよう″と、若き鄧穎超さんに呼びかけたのである。
 なんと誇り高き「青春の誓い」であろうか。
 鄧穎超さんの回想は続く。
 「当時、私たちは、誓いの言葉を述べる時、だれもが、『革命のために死する』ことを願い、熱血を注ぎ、首をなげうつことをも惜しまぬ決心を固めたものでした」
 「私たちは、幾十年にもわたって革命に身を投じ、生死の境をさまよい、艱難の中で苦労をともにし、悲しみも喜びも分かち合うことができました。私たちは、あるときは、ともに戦い、あるときは互いに遠く離れた地にあって、恐れる心なく、私心をなげうって戦いました。私たちは、革命の生涯にあって、常に堅い意志をもち、泰然として、沈着に戦い続けてきました。
 私たちの愛情は、数十年を経ても、いささかも色褪せることなど、ありませんでした。
 革命の前進、建設の発展は、まさに限りなく明るく、そして麗しいものとなるに違いありません」
 鄧穎超さんは、こう言い残されたのである。
 お二人は、戦友として、同志として、生き抜かれた。名聞名利など、まったく眼中になかった。
 同志は崇高である。同志は、絶対に裏切らない。
 思えば、戸田先生は、私どもの結婚式に際して、ありきたりのお祝いなど言われなかった。ただ一言、「広宣流布のために、二人で力を合わせて、戦い切れ!」と。
 「革命は死なり」――この覚悟に生き抜く人生には、一点の悔いもない。
3  一人一人を敬い、大切に
 もうすぐ春である。このほど、「沖縄平和記念墓地公園」が完成した。この一帯は″日本で最初に桜が咲く地域″として有名である。すでに桜が盛りを迎えようとしているという。
 昨年(一九九八年)四月、創価大学で、第二十回の「周桜」観桜会が、盛大に開かれた。およそ千人の方々が集った。来賓として、日中友好の大功労者・林祐一氏が、お越しくださっていた。初代の駐中国公使を務められた方である。
 氏は、周総理との交流を、しみじみと語っておられる(『日中月報』)。それは、一九七三年の春以降、中国に、アフリカ諸国の元首や大統領が次々と来訪するようになったころのことである。
 周総理は、いまだ国際社会では立場が弱かったアフリカ諸国を、だからこそ、敬い、大事にされた。当時、周総理の体は、すでに病に深く侵されていた。
 しかし、それでも周総理は、アフリカの元首が帰る際にも、常に空港まで付き添い、飛行機が飛び立って見えなくなるまで、丁寧に見送ったという。
 真冬でもそうであった。通りいっぺんの儀礼や形式ではない。もう一歩、こまやかに、もう一歩、あたたかく、どう真心を込めて接していくか。そこまで心を砕いて、周総理は、来た人をがっちりと味方にし、新中国を建設していったのである。
 更に、そうした外交の場に、周総理は若き後継の青少年たちを、必ず伴っていた。そして、自らの姿をもって、相手の心をつかんでいく、きめこまやかな、誠実な外交の振る舞いを、厳然と教え残していったのである。

1
1