Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

日米各部協議会 「虚飾の権力者」より「正義の庶民」が尊い

1998.10.24 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

前後
1  自分自身に生きよ
 イソップ物語に、こんな話がある。
 ある時、鳥の王様を決めることになった。いちばん美しい鳥を選ぶのである。そこで鳥たちは、みんな川へ行って、体を洗った。
 あとから、カラスが川に、やってきた。カラスは自分が醜いことを知っていたので、鳥たちが落としていった羽を拾い集めて、自分の体を飾った。
 さて、コンテストの日。カラスは、素晴らしい飾りをつけて現れた。
 「こんな、いろいろの羽をもった鳥がいたなんて!」
 カラスが一番に選ばれそうになった。しかし、「何だか、変だぞ」と、みんなが騒ぎだした。
 「あれは、私の羽じゃないか!」
 「あ、あれは私の羽だ!」
 怒った鳥たちは、カラスから羽を、むしりとった。こうして、カラスは大恥をかいた。みんなにバカにされて、だれも、カラスを信じなくなった。
 ――こういう話である。
 カラスがバカにされたのは、羽が黒かったからではない。自分のありのままの姿で生きないで、見栄を張って、自分をウソで飾ったからである。
 もしもカラスが、ありのままの姿で、誇りをもって生き抜いていれば、それなりに尊敬を集めたにちがいない。″見栄で飾る″愚かしさを教えた話である。
2  アメリカから、「パイオニア・グループ」(草創からの婦人部の友)の皆さま方! また、各地域で、ガッチリと支えてくださっている「信心の長者」の皆さま! そして、ロマンの薫り高き、広宣流布の共戦史をつづってこられた「荒城の月グループ」(婦人部の人材グループ)の皆さま方! ようこそ、お越しくださいました。きょうは、大事な集まりですので、記念に少々、スピーチを残させていただきたい。
3  大弾圧のなかで御金言″日蓮は旃陀羅が子″
 あのカラスのような虚飾は、むなしい。
 日蓮仏法では無作三身と説く。「つくろわず、もとのまま」の姿が尊いのである。世の中の人々の願望に応じて「色相荘厳」の仏も説かれた。しかし、これは仮の仏(権仏)であり、飾らない凡夫こそが真の仏なのである。これが法華経の真髄である。
 日蓮大聖人は、御自身のことを「民が子」「旃陀羅が子」と、堂々と宣言なされている。
 今は学歴社会といわれるが、当時は家系社会である。実力社会への芽ばえはあったが、どうしても家柄が大事であった。僧侶の位でさえ、修行よりも、家柄が、ものをいった。そういうなかで、大聖人は、あえて言われたのである。
 「日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候」――日蓮は、中央の都の人間でもなければ、地方の将軍などの(有力者の)息子でもありません。遠い「辺地」の田舎者であり、「民の子ども」です――。
 「日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり」――日蓮は安房の国の・東条の片海の磯に住む賎民の子どもです――。
 「海辺の旃陀羅が子なり」――海辺の旃陀羅の子どもです――。
 ふつうならば、信者に対して、少しは″見栄″を張って、自分を良くみせようとするかもしれない。しかし大聖人は、むしろ「民の子」であることを誇っておられた。なぜか。さまざまに拝することができるが、こうも考えられよう。
 すなわち、「民の子」であるからこそ、″一切衆生を仏にする″民衆仏法を弘めることができるからである。また、「民の子」であるからこそ、大難が起こる。
 貴族の子どもであれば、権力に守られて、あれほどの大難は起こらず、法華経の予言は証明できなかったであろう。
 民衆の、しかも当時、最低の立場とされた「旃陀羅が子」として生き抜いて、そのままの姿で最高の人間すなわち「仏」になる。この痛快なる、人間の真髄の逆転のドラマを、大聖人は示してくださったのである。それが法華経である。
 今も、同じである。学歴もない、名家でもない、財閥でも、有名人でもない庶民が、信仰の力で「ああ、立派な人だった」「何と、美しい人生か」と、皆に慕われる人間革命をする。それが尊いのである。自分を権威で飾ったり、ウソで飾ったり、虚栄と虚勢の人生は、大聖人の仏法とは正反対の人生である。むしろ、そういう虚飾の権力者、権威主義者と戦うのが、日蓮仏法なのである。

1
1