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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表協議会 ″人″がいてこそ″道″は開けた

1998.4.14 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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1  日本・ロシア友好の″恩人″ストリジャック氏
 ストリジャック先生は、一九二七年(昭和二年)九月七日、中国のハルビンのお生まれである。現在、七十歳で、私と同い年であられる。少年時代、ハルビンで日本人に接することが多く、それがきっかけで日本語に興味を覚えたという。その後、モスクワで本格的に日本語を学ばれた。
 流麗な日本語の達人で、中国語も堪能な″語学の天才″であられる。
 ご家族は、イリーナ夫人と三人のお子さん。ご長男は、チェルノブイリ原発事故の被害者の医療事業に従事されている。
 先生は、このほど四カ月にわたる創価大学での特別講義を終えられ、今月、帰国される。
 モスクワ大学付属の東洋語学研究所を卒業され、同大学付属のアジア・アフリカ諸国語大学で、日本語と言語学の講座を担当。九一年から現在まで、同大学日本語学科の助教授を務めておられる。モスクワ大学と創価大学の交流に、長年、尽力してこられたことは周知の通りである。教育・学術へのご貢献に対し、東洋哲学研究所から「東洋哲学学術賞」を、日本学士会から「桜賞」を受賞されている。
2  ストリジャック先生との初めての出会いは、一九七四年、第一次訪ソの時であった。以来、六度、ソ連・ロシアを訪れたが、すべての訪問に立ち会い、支えてくださった。
 主な要人や行事を挙げると、第一次(七四年九月)は、コスイギン首相、ノーベル賞作家のショーロホフ氏、モスクワ大学のホフロフ総長。
 第二次(七五年五月)は、コスイギン首相との再会、モスクワ大学での第一回の講演「東西文化交流の新しい道」。この折、光栄にも、モスクワ大学の「名誉博士」の学位をいただいた。海外の学術機関からの名誉博士・名誉教授等は五十を数えるが、その最初の受章であった。
 第三次(八一年五月)は、チーホノフ首相、コスイギン首相の令嬢・グビシャーニ女史、「トルストイの家」と資料館の訪問。
 第四次(八七年五月)は、ルイシコフ首相、「核兵器――現代世界の脅威」展。
 第五次(九〇年七月)は、ゴルバチョフ大統領との初めての会見。
 第六次(九四年五月)は、モスクワ大学サドーヴニチィ総長、二回目の講演「人間――大いなるコスモス」、国際大学の名誉博士号授与式等々――である。
3  ″宝の友人″との″宝の歴史″
 この間、ストリジャック先生とは、日本でも折々に語り合った。
 初訪ソの三カ月後、先生は霧島の九州研修道場に、八人の教え子をつれて来てくださった。皆で一緒に温泉に入ったことも懐かしい。その時の思い出を、学生さんたちも大切にしてくださっているとうかがい、私もうれしい。
 ″この方たちこそ、日本との未来の懸け橋だ″との期待と尊敬を込めて、また、私の上手でないロシア語の発音でお名前を呼ぶのを避けるために、ニックネームをつけさせていただいた。
 ストリジャック先生を中心にして、教え子の皆さんを「大臣」とした(笑い)。
 「運輸大臣」と命名した学生は、現在、在日ロシア大使館の日本公使となっておられる。また「官房長官」と命名した学生は、「運輸大臣」の前の日本公使であり、現在はロシアの外務省に勤めておられる。また「外務大臣」と呼ばせていただいた学生は、札幌の総領事として、また「大蔵大臣」は、在日大使館で活躍されている。
 ストリジャック先生は「このようにロ日関係の第一線で多くの教え子が活躍してくれていることが、私の何よりの誇りです」と語っておられる。
 私にとっても、縁した皆さまの晴れがましいお姿が、まことにうれしい。
 先生は、東京創価小学校に来てくださったこともある(八一年十月)。ちょうど「いもほり大会」の日で、一緒に、どろんこになって参加してくださった。
 神奈川文化会館では、ソ連の留学生との記念撮影もさせていただいた(八一年十二月)。八二年七月は東京・港区の麻布文化会館で。八七年十二月には、冬休み前の学園生と一緒に、「学園会館」の開館式に出席してくださった。
 八八年三月には、ご夫妻で聖教新聞本社へ。九五年五月には、ご夫妻は東京牧口記念会館へ。九七年十一月にも、東京で、ご夫妻をお迎えしている。
 大切な″宝の友人″であり、″宝の歴史″である。
 九五年、先生が、ご病気になり、手術を受けられるとうかがって、和歌を贈らせていただいた。
 「祈るらむ
   ただ ひたすらに
     祈るらむ
   偉大な友の
     笑顔見るまで」
 日本にいらっしゃった先生は、ありがたくも、この和歌を毎日、口ずさみながら自分を励ましておられたとうかがっている。恐縮のいたりである。

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