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日蓮大聖人・池田大作

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第14回本部幹部会 痛快な勝利の人生を飾れ

1997.8.27 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  宗教を弘める唯一の方法、それは殉教
 中部の総会、おめでとう!(拍手)
 音楽隊もすばらしい演奏を、ありがとう! 見事です。
 フランス革命のころの話である。(約二百年前)
 人々の心は乱れていた。古い宗教(カトリック)は否定され、新しい道徳もない。殺人は日常茶飯事である。基準がなく、乱れきった世の中であった。
 今の日本も、だんだん似てきている気がしてならない。
 さて、こういう世の中を嘆いたある男が、当時の名士タレーラン(一七五四〜一八三八年)のもとにやって来た。
 ――タレーランは、フランスの政治家で外交官である。「近代外交の祖」と言われ、ナポレオンの外務大臣にもなった。ただし彼の本質は、ナポレオンの仇敵であった。
 男は語る。「この乱れた世の中を救うために、自分は、新しい宗教を考え出した」と。
 タレーランは、その内容を聞いて、「わかりました。いい話ですな。ただし、どうやって、それを宣伝するつもりですか?」。――つまり、どうやって布教し、広宣流布していくのかということである。
 男が答える。「この宗教を、学校をはじめ、国家のあらゆる機関で宣伝してもらいたい」
 なるほど、それならば知らない人は、だれもいなくなるであろう。皆、その宣伝に目を見張って、聞いていくであろう。しかし――タレーランは、きっぱりと答える。
 「だめですよ、そんなことは。それだけでは絶対に失敗する。決して弘まるものではない。この宗教を弘めるには、たった一つの道しかありません」
 男は、希望に目を光らせた。
 「その、たった一つの道とは何でしょうか? ぜひ教えてください」
 一体、どんな″いい方法″があるというのであろうか。
 すると、タレーランいわく。
 「″この信仰が正しい″ということを証明したいのならば、あなたがパリの真ん中で、はりつけになって死ぬことです。殉教しなさい。それ以外に、方法はありません」(新渡戸稲造著『東西相触れて』昭和三年刊。参照)
2  宗教の「魂」は殉教にある。キリスト教も、イスラム教も、弾圧につぐ弾圧を受け、数限りない人が殺された。
 仏教も、釈尊の時代から今まで、無数の人々が法のために殺された。それでも人々は、ひるむことなく、法のために命を捧げていった。だからこそ世界的な宗教になったのである。
 命を捨てなければ、宗教は弘まらない。人々の心はとらえられない。命をかけた尊い「心」に、人の「心」が感応するのである。
 牧口先生も殉教。戸田先生も殉教。私も「殉教の精神」できた。だから、ここまで世界に弘まった。
 宗門には殉教の精神はない。あるのはただ、利己主義の畜生の心である。広宣流布などできるわけがない。
 例の男は、自分が命を捧げるのではなく、うまいことを言って、「人にやらせよう」としていた。国の大きな組織に乗っかって「うまくやろう」と考えていた。その甘い考えは、こなごなに打ちくだかれた。
 「人にやらせよう」。これは官僚主義である。信仰ではない。
 「自分が苦労しよう」。これが信仰である。人間主義である。学会を築いた皆さま方の心である。
 自分は苦労せず、傷つきもせず、「うまく人を動かそう。働かせよう」と、考える。そんな、ずるい人間は、断じて学会の幹部ではない。本当の信仰者ではない。
 学会のおかげで偉くなった人間も、だれよりも死にもの狂いで行動し、尽くすべきである。それが当然の人間の道である。
3  どうして学会は大発展したか
 かなり以前だが、何人かのジャーナリストから聞かれた。
 「どうして創価学会は、こんなに発展したのですか」
 私は答えた。「命がけです。真剣勝負です。一生懸命にやったからです」と。
 しようと思えば、理論的な説明もできた。「文証・理証・現証」という仏法の法理のうえから語ることもできた。しかし、一生懸命に、ただ一生懸命に、皆さま方が戦ったからこそ、学会は発展した。これが真実の歴史である。
 有名になろうとか、地位がほしいとか、人にほめられようとか、自分を守ろうとか、そんな卑しい心が少しでもあれば、本当の広宣流布の戦いはできない。難と戦えるはずがない。
 ある人が言っていた。
 「これだけ中傷され、迫害され、たたかれても、学会は微動だにしない。本当に大したものですね。考えられない」「世界にも、こんな団体は、ほかにないでしょう」と。
 それほど、偉大な皆さま方である。
 私も揺るがない。いかなる嵐があろうとも。普通であれば、病気になるか、死ぬか、気が狂うか、自殺するか――それほどの大難また大難であった。しかし、私は生きて生き抜いた。これが「創価の精神」である。「師子の魂」である。
 しかも私は、だれをも犠牲にせず、自分が一身に難を受けようという一念で戦ってきた。この心を知っていただきたい。
 入信五十年――「殉教の心」で私は戦った。皆さま方も、雄々しく呼応してくださった。「広宣流布」を、ここまで進められたのも、その結果である。
 「殉教の心」――それ以外に、広宣流布を進める「いい方法」などない。いわゆる方法論は、枝葉の問題である。

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