Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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関西代表者勤行会 「覚悟の信心」から無限の力が

1997.5.20 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  「大法興隆」「祈願成就」を祈念
 いつも、大変にご苦労さまです。役員の方々も大勢おられるが、「陰の人」に最大の感謝をこめて、スピーチさせていただきたい。
 昨日、五月十九日は、創価学会常住の御本尊すなわち「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊が認められた記念の日であった。(一九五一年〈昭和二十六年〉)
 その意義深き日に、関西から二十一世紀の「慈折広宣流布」へ新たな出発を刻むことができた。
 学会の前進は一切が仏意と仏勅にかない、妙なる価値創造のリズムにのっとっている。
 雨の予報をくつがえしての晴天も見事であった。関西婦人部の祈りは強い。そして本日は関西本部常住の御本尊すなわち「大法興隆所願成就」の板御本尊を拝し、関西を原動力にした、いよいよの「大法興隆」と関西の同志のますますの「所願成就」を祈念してまいりたい。
2  大難は「我らがために」と感謝を
 日蓮大聖人が「私のことを、こういうふうに人に話しなさい」と教えられた珍しい御書がある。(「弥三郎殿御返事」、御書1449㌻)
 ある在家の門下に、仏法対話の仕方を教えられたのである。(一説には武士であった斎藤弥三郎とされている)
 わかりやすく大意を言うと「(日蓮大聖人という方は)日本の国が仏法の正義にそむいたゆえに『このままでは滅びてしまう。外国からも攻められるだろう』と、日本の国を救うために、『わが身はどうなってもよい』という覚悟で正義を叫ばれた」と。
 その結果、「二十余年・所をおはれ弟子等を殺され・我が身も疵を蒙り二度まで流され結句は頸切られんとす、是れひとえに日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼て知りて歎き候なり、されば心あらん人人は我等が為にと思食すべし、若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし、さこそ無からめ還つて怨をなしなんど・せらるる事は心得ず候、又在家の人人の能くも聞きほどかずして或は所を追ひ或は弟子等を怨まるる心えぬさよ、設い知らずとも誤りて現の親を敵ぞと思ひたがへて詈り或は打ち殺したらんは何に科を免るべき
 ――二十余年の間、いる場所を追放され、弟子等を殺され、わが身も傷を受け、二度まで流罪され、ついには頸を切られるところであった。これはひとえに日本国の一切の人々が将来、大苦悩にあうことを早くから知って、嘆き(助けてあげようと思って)行動した結果である。
 ゆえに心ある人々ならば、「我々のために(大聖人は)難にあってくださったのだ」と思うべきである。もし恩を知り、心ある人ならば、(大聖人が)二つ打たれる杖の一つは替わりに打たれるべきである。それもしないどころか、反対に迫害するとは、まったく、どうしたわけであろうか。(中略)たとえ知らないで、誤って自分の親を敵と思い違え、ののしり、あるいは打ち殺したならば、(知らなかったと言っても)どうして罪をまぬかれようか――。
 大聖人は、こう言いなさいと、門下に教えられたのである。
 信仰してない人でも大聖人に恩を感じて「二つの杖のうち一つ」は受けるべきだ、と。いわんや門下は当然であった。また、こう仰せである。
 「たとえば物ねたみする女の眼を瞋らかして・とわり後妻にらむれば己が気色のうとましきをば知らずして還つてとわりの眼おそろしと云うが如し
 ――(日本の人々が大聖人を非難しているありさまは)譬えば「嫉妬した女性が(焼きもちのあまり)目をいからせて相手の女性をにらみ、自分のものすごい形相を知らずに、かえって相手の目が恐ろしいと言っている」ようなものである――。
 ――今も全部、焼きもちなのである。
3  手紙の最後には、法戦に臨む門下の心がまえとして、こう書かれている。
 「構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但ひとえに思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし
 ――心して覚悟を決め、所領(領地。今で言えば財産・地位にあたろう)を惜しんだり、妻子を顧みたり、人を当てにして、不安になり恐れることがあってはならない。ただ、ひとえに思いきりなさい。
 今年の世間の様子を鏡としなさい。多くの人が死んだのに、今まで自分が生き永らえているのは、このこと(法華経の法戦)にあわんがためである。この今の戦いこそ、宇治川を渡す所であり、勢多川を渡す所である。名を上げるか、名をくだすかの境目である。(宇治川も勢多〈瀬田〉川も、関西の要害の川。源平の合戦でも勝負を決する要所となった)
 人間に生まれるのはまれであり、法華経は信じがたいとは、このことである。(今こそ成仏する千載一遇のチャンスである)
 (この戦いに勝つために)「釈迦・多宝・十方の仏よ! 来(きた)り集まって、わが身に入り、われを助けたまえ!」と一念を決めなさい――。
 今こそ、成仏できるかいなかの「境目」である。広宣流布の宇治川であり、瀬田川である。渡りきれば勝利である。断じて、渡りきらねばならない。「覚悟の信心」には、無限の力がわく。釈迦・多宝・十方の諸仏が、こぞって力を与えてくださるのである。

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