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日蓮大聖人・池田大作

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第10回本部幹部会 日蓮仏法は「師弟不二」が魂

1997.4.21 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  大発展のブラジル――原動力は一人の女性の「祈り」
 「5・3」おめでとう! 楽しくやりましょう!
 SGI(創価学会インタナショナル)各国の皆さまも、ご苦労さま!
 今回、ブラジルが、アルゼンチンとともに、一番、遠くから来られた。そこでまず、ブラジルを通して話を進めたい。
 私がブラジルを初訪問したのは、一九六〇年(昭和三十五年)の十月である。
 会長に就任して、ただちに私は「世界」へ行った。(この年の五月三日に第三代会長に就任。十月、アメリカ、カナダを経て、ブラジルを訪問)
 当時、三十二歳。それはそれは忙しかった。家に帰る暇などなかった。
 今年で入信五十年である。学会のため、広宣流布のために、休みなく、一心不乱に戦ってきた。
 これだけの偉大なる広宣流布の歴史を残した。その福運は、永遠にわが身を飾るであろう。光るであろう。ともに行く人もまた同じであると確信する。
2  一九六六年(昭和四十一年)三月が二度目のブラジル訪問であった。
 (六六年は、軍政時代。六四年、ブラジルはクーデターにより軍事独裁政権に。多くの文化人・識者が弾圧され、国外追放された)
 この時は、最初から最後まで、どこへ行っても警察に行動を監視された。もとより、悪いことなど何もしていない。すべては讒言(人を陥れるためのウソの告げ口)によるものであった。しかも多くは、何人かの日本人や日系人によって、「共産主義者である」とか「暴力主義だ」などとレッテルを張られたのである。
 警察の監視が厳しく、どうしようもない。最後の会合をしようと、ある体育館に行った。そこでも、二百人くらいの警官に囲まれた。会場の入り口にも、出口にも立っている。
 こうした状況のため、サンパウロに三泊四日、滞在しただけで出国せざるをえなかったのである。
3  それから十八年間、私はブラジルに行くことができなかった。ブラジルを訪問する予定が、ビザがおりず、途中で行けなくなったこともあった。(一九七四年)
 そういうなか、耐えに耐え、祈りに祈り抜いて戦った人がいる。それはシルビア・サイトウさん。けなげなる一人の女性である。(ブラジルの総合婦人部長を務めた)
 サイトウさんは京都の女子部の出身。結婚して東京・目黒で活躍したあとブラジルに渡った。
 彼女は真剣だった。ただひたすら祈った。祈り続けた。「どんなことがあっても先生を迎えよう。そして、私たちはブラジルの広宣流布を、しっかり進めよう」と。
 唱題につぐ唱題――それは何百万遍どころではない。何千万、いな億という数の題目であったろう。この題目が、今日の偉大なるブラジルSGIをつくった原動力だったのである。
 腹を決めた婦人の祈りは強い。男性は臆病で、ずるい。策に走る場合が多い。
 そして十八年後の八四年二月、ついに私は三度目のブラジル訪問を果たすことができた。サイトウさんも、本当に喜んでおられた。(民主化を求める声が高まり、八五年には民政が実現した)
 さらに九三年には、ブラジルSGIの素晴らしい自然文化センターで、ご夫妻とゆっくり語り合った。
 私が帰国のとき、サイトウさんは飛行場まで来て、別れぎわに言われた。「先生、ありがとうございます」の一言が、今も忘れられない。
 その二カ月後、四月二十八日(日本時間二十九日)に亡くなられた。使命を果たしきった、立派な一生であった。

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