Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第2回沖縄最高会議 民衆こそ尊極の宝

1997.2.27 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

前後
1  創価の精神は、民衆の幸福を目的
 民衆ほど尊いものはない。民衆こそ尊極の宝である。
 空気は、どこにでもあるが、絶対に尊い。絶対に必要である。水も、土も、どこにでもあるが、どんな高価な飲み物よりも、どんな立派な宝石よりも、尊い。必要である。
 人間も、ひとにぎりの財産家や有名人が偉いのではない。どこにでもいる民衆こそが尊いのである。民衆こそ宝なのである。
 私は、民衆を最大に大切にしてきた。民衆の味方になってきた。民衆の幸福だけを「目的」としてきた。これが創価学会の根本精神である。
 この二月、沖縄をはじめ、全国のわが同志は、見事に健闘してくださった。
 ある草創の大功労の母君も、九十歳を超えてなお、「伝統の二月と聞くと、血が騒ぐ」と言われながら、孫たちの弘教を見守り、応援しておられたそうである。
 何歳になっても、広宣流布の闘争に、熱き血潮を燃やしていく。これこそ、「信心の血脈」が脈打っている証であり、創価の大精神である。
2  「知恵」は出る、「慈悲」の胸から――釈尊の夫人門下の実践
 釈尊の時代、プンニカーという年配の婦人門下がいた。彼女は、もともと、水汲みをする召使いであった。どんな寒い日でも、水の中に入って、せっせと水を汲まねばならなかった。少しでも休もうものなら、貴婦人たちから、厳しく罰せられ、罵られたのである。
 そんな彼女が、釈尊という師に巡り会い、仏法という哲理を抱いて、使命と充実の人生を歩み始める。その時、それまでの苦労も、すべて、多くの人々を包容し、救っていく慈愛となり、智慧となって生かされていった。
 ある時、彼女は、一人のバラモン(当時のインドで最も高い階層)が冷たい川の水につかって、苦行しているのを、目撃した。
 彼女は、かつて、水汲みをしていた自分のつらい姿を思い出して、そのバラモンを放っておくことができなかった。彼女は、勢いよく声をかける。
 「バラモンよ、あなたは、手足を震わせながら、厳しい寒さに耐えておられます。いったい、だれを恐れて、水に入っているのですか?」
 すると、バラモンは、答えた。
 「老いも若きも、こうして水浴することで、悪業を洗い流すことができるのだよ!」と。そんなことも知らないのか、といった傲慢な態度だったかもしれない。
 だが彼女は、勇敢に切り返していく。
 「その教えが本当ならば、いつも水中にいるカエルやカメやワニも、天に生まれることになるでしょう。また、川の流れが悪業を流すというのなら、それは、あなたの善業をも流すことになるでしょう。それでは、あなたは、善にも悪にも関係のない傍観者になってしまいますよ」と。
 その人を、なんとか正しい法に目覚めさせたいという「慈悲」があるから、「智慧」は尽きることなく湧いてくる。そして、彼女は、「そんな愚かなことはやめなさい。寒さのために病気にならないようにしなさい」と、相手の健康を気づかい、やさしい慈愛の言葉をかけていったのである。(『尼僧の告白』中村元訳、岩波文庫。参照)
 仏法とは、どこまでも道理であり、良識である。健康になるため、よりよき生活のため、最高に価値ある人生のために、仏法はある。
 彼女の言葉に、バラモンは翻然と目が覚めた。自分もまた、釈尊に帰依し、和合の集いに身を投じていくことを誓った。
 こうして庶民の老婦人が鮮やかに、知識階層のバラモンを覚醒させたのである。
 まさに、わが婦人部、また多宝会の皆さまを、ほうふつさせる尊い姿である。
 学会の草創期、学歴のない一婦人が、堂々と、大学教授を仏法に導いたことを聞かれて、戸田先生が、それはそれは喜んでおられたことを、私は懐かしく思い出す。
 そういう名もなき庶民の崇高なる実践によって、創価学会は、これほどまでに発展したのである。
3  「同志を尊敬する心」が「福徳」に
 ここ沖縄も、そうである。それは、社会に根を張り、民衆に根を張り、生活に根を張った、着実にして偉大なる「地涌の菩薩」の大行進である。素晴らしい「沖縄国際平和会館」も、その皆さま方の誇りも高き「凱旋の城」である。おめでとう!
 皆の会館である。皆で有意義に、価値的に、自由に使っていただきたい。
 学会活動に、形式は必要ない。会合も、服装も、形式ばる必要はないし、伸び伸びと、ありのままの、「本有無作」の姿でよいのである。

1
1