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日蓮大聖人・池田大作

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香港・マカオ合同最高会議 「実証」が最高の雄弁

1997.2.13 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  妙法を行ずる所こそ常寂光土
 香港・マカオのSGI(創価学会インタナショナル)合同最高会議、おめでとう。
 きょう(二月十三日)は、旧暦の正月七日。中国古来の習わしで「人日ヤンヤツ」と呼ぶ。「人間が、この世界に誕生した日」であり、「皆の誕生日」である――としている。
 (旧暦の元日から八日までを、それぞれとりこう〈イヌ〉・〈ブタ〉・羊・牛・馬・人・穀物の日として、当日の天候の良し悪しによって一年の吉凶を占ったという。この日に、七種の菜を食べる風習もあった)
 中国古来のお祝いの日に、皆さまにお会いでき、うれしい。
 大好きな香港(ホンコン)・マカオの皆さまとお会いすることは、私の人生の大きな喜びであり、楽しみである。
 香港・マカオのSGIは着実に前進している。地域に、また社会に、大きく深く、信頼を広げておられる。その姿は、まさに世界の模範といってよい。
 この妙法を持ち、妙法に生き切っていくならば、どこにあっても「常寂光土」である。その人を、地涌の菩薩の上首であられる上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が、身に影の添うがごとく守ってくださる。その福徳を確信していただきたい。
2  中国文学の伝統は、民衆の声を代弁
 本年七月の中国返還を前にして、現在、私は、文豪・金庸きんよう氏と、「香港の明日」を語りあっている。
 金庸氏も、かねがね香港SGIの活動を高く評価してくださっている方の一人である。
 昨年五月三日の香港総合文化センターの開所式にも、ご多忙のところ、足を運んでくださり、心こもる祝辞をくださった。「池田先生と会談した折、真の『二十一世紀人』になるには、まず大いに胸襟を開いて、見解の違う人々も互いに理解しあい、慈悲の心を養わねばならない、と語り合ったことを覚えています」と。
 金庸氏のご厚情に感謝と敬意をささげる意味からも、ここで、中国文学の偉大な伝統について、若干、言及させていただきたい。
3  金庸氏の武侠ぶきょう小説は、よく『水滸伝』と比較される。
 戸田先生のもとでの青年部の訓練の集いは、『水滸伝』を読むことから始まった。そこで「水滸会」という名前になった。
 民衆に親しまれてきた『水滸伝』。しかし、それは同時に「権力から憎まれ続けてきた文学」であった。「文学の名に値しない」と、さげすまれたこともある。それも「『水滸伝』が、ある意味で「民衆の声を代弁する文学」だったからである。
 『水滸伝』の大きなテーマの一つは、「責任を果たさない為政者への怒り」と言われる。
 物語の舞台は、北宋の時代の末期。皇帝はじめ権力者は、自身の欲望におぼれ、世は乱れていた。また、その隙をねらって外敵が侵入しようとしていた。
 中国の格言に「先憂後楽」(范文正公「岳陽楼記」)とある。民に先んじて、世の行く末を憂い、自分一身の安楽は、あとまわしにする――これが為政者のあるべき道である、と。
 ところが現実は反対であった。そうした為政者の堕落への憤りが、弱きを助け、強きをくじく『水滸伝』の豪傑の活躍となって描かれたともいえよう。
 金庸氏は、つねに民衆の視点に立って、数々の評論をつづってきた。
 金庸氏の武侠小説の多くも、『水滸伝』と同じく、横暴な権力への反骨に貫かれている。評論も小説も、どちらも「民衆の側に立つ」ことで共通している。その意味で、金庸氏こそ、「民衆の声を代弁する」という中国文学の心を受け継ぐ文学者であるとたたえたい。

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